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ナイスネイチャを「どの馬よりも強い」と信じた名物厩務員がいた…有馬記念3年連続3着の“神業ブロンズコレクター”はなぜこれほど愛されたのか?
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byTomohiko Hayashi
posted2023/06/03 17:01
写真は1994年11月27日、ジャパンカップの本馬場入場。ナイスネイチャと鞍上の松永昌博に付き添う馬場秀輝厩務員
翌94年も、天皇賞・春と宝塚記念でビワハヤヒデの4着となり、当時GIIだった高松宮杯を制するなど活躍。重賞を4勝し、それぞれのレースでイクノディクタス、ヌエボトウショウ、イブキマイカグラ、ミスターシクレノン、ウイニングチケット、スターバレリーナといった強豪を負かしているのだから、本当に強かった。
にもかかわらず、GIではブロンズコレクターとなってしまったのは、スパッと切れる脚がなかったからか。
何度壁にはね返されてもGIに挑みつづけ、さまざまな世代の強豪を相手に、懸命に走る姿は多くのファンを惹きつけた。
「馬場さんが生きていたらどんなに喜んだことか…」
旧9歳だった1996年、史上初の6年連続有馬記念出走を目指していたが、右前脚の不安のため回避し、そのまま引退した。
種牡馬としては、これといった産駒を送り出すことはできなかった。
現役を退いた2年後の98年、担当厩務員だった馬場さんが交通事故に遭い、41歳で他界した。ナイスネイチャを通じて知り合ったファンの結婚式の帰途での事故だったという。
翌99年にJRAがワイド馬券の発売を開始し、ナイスネイチャは、3着によく来た有名馬としてキャンペーンキャラクターに起用された。馬場さんが生きていたらどんなに喜んだことか。もし、ワイドのある時代にナイスネイチャが走っていれば、また違った人気を集めていただろう。
2001年に種牡馬登録を抹消したあとは、故郷の渡辺牧場で余生を過ごしていた。
馬場さんが早く逝ったぶん、ナイスネイチャは頑張って長生きしたのかもしれない、とも思えてくる。
天国でも、ナイスネイチャは、馬場さんにとって「自慢の相棒」でありつづけるに違いない。
ふたりで、ゆっくり休んでほしい。