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野球クロスロードBACK NUMBER
「えっ、次の相手はダルビッシュ…?」20年前、甲子園で戦った花咲徳栄エース“2時間26分の記憶”「生徒に言っても信じてもらえない」
posted2023/03/24 11:00
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
BUNGEISHUNJU
スマートフォンを覗く、テレビをつける。意識せずともワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の中心選手である彼のニュースが飛び込んでくる。
「テレビでいつも見させていただいてます。懐かしいですね」
花咲徳栄でコーチを務める福本真史は、野球人生で一度だけダルビッシュ有と交錯した経験を持つ。
2003年のセンバツ。
ダルビッシュはすでに有名人だった。
小学生で野球を始めた当初こそキャッチャーだったが、中学生でピッチャーとなるとテレビで特集されるほど注目されるようになった。東北高校に入学時点で身長はすでに192センチ。球速も140キロを越えていた。1年秋からエースナンバーを背負い、東北大会制覇、明治神宮大会出場と、投げればスポーツ紙などで名前が躍る。ピッチャーになるべくしてなった。それが、ダルビッシュだった。
そのダルビッシュとは対照的に、福本は「作られたピッチャー」だった。
ピッチャー適性を見抜いた恩師の急逝
中学は軟式出身。ピッチャーの経験もあったが主戦場はサード。当時、花咲徳栄のコーチだった岩井隆の話によると、バッティングに優れた福本を野手として招き入れる予定だったが、監督の稲垣人司の鶴のひと声が「ピッチャー・福本」を誕生させたというのだ。
「稲垣監督に中学生の福本のプレーを見てもらったら、『この子はピッチャーもできるぞ』となって。それで、実際にピッチングも見て『いける』となりまして」
二刀流を務めていたように福本はプレーヤーとして器用であり、ピッチャーとしてもコントロールがよく、しっかり指を使ってボールをリリースできていたため球質もよかった。
「スピードをつければ、この子はもっといいピッチャーになる」
資質を見抜き、太鼓判を押していた稲垣は、福本が花咲徳栄で投げる姿を見ることなく、2000年に急逝した。遺志を受け継ぎ監督となった岩井は、「恩師の遺言だから。私が育てられなかったらダメだと思った」と振り返る。福本とはつまり、「稲垣の忘れ形見」のようなピッチャーでもあった。