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アントニオ猪木「アリ戦以上の話題に…」幻に終わったイロモノ企画「猪木vs“食人大統領”アミン」とは何だったのか?“常識破りで規格外”な人間性 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by東京スポーツ新聞社

posted2023/03/27 17:00

アントニオ猪木「アリ戦以上の話題に…」幻に終わったイロモノ企画「猪木vs“食人大統領”アミン」とは何だったのか?“常識破りで規格外”な人間性<Number Web> photograph by 東京スポーツ新聞社

1979年1月25日、東京・京王プラザホテルで行われた「猪木vsアミン大統領」の記者会見

“壮大なホラ話”はなぜ実現に向かったのか?

 発表された主な内容は、「1979年6月10日、ウガンダの首都カンバラにある3万人収容の国立競技場で開催」「レフェリーはモハメド・アリ」「試合に先駆けて調印式を2月16日、現地カンバラで猪木とアミン大統領、レフェリーのアリ、プロデューサーの康同席のもと行う」「総費用は約30億円」「試合はアメリカのNBCネットワークを通じ、北朝鮮以外の全世界に放送される」というもの。

 この記者会見にはスポーツ紙やプロレス専門誌だけでなく、一般紙や一般週刊誌、在京のAP、UPなどの外国通信社も含め約50人、30社以上の報道陣が集まったため、「猪木vsアミン決定」は外電で海外にも配信された。

 なお、試合のギャランティに関しては、レフェリーのアリが100万ドル(当時の相場で約2億4000万円)、猪木がその半分の50万ドル。アミン大統領は公人のためノーギャラ。ただし、純利益の半分にあたる約15億円をウガンダの国家収入とするということまで決まっていたという。

 あまりにも荒唐無稽、世界規模のスケールを持った壮大なホラ話としか思えないこの一戦が、なぜ実現に向かっていたのか。

 プロデューサーの康芳夫がのちに語ったことによると、もともとボクシングの東アフリカ・ヘビー級王者でありムスリム(イスラム教徒)でもあったアミン大統領は、同じ黒人でムスリムの英雄であるアリを尊敬しており、アリが仲介した話だったため快諾したとのこと。

猪木の動機「非常識の実現にロマンを感じる」

 一方、猪木のほうはアミン戦をやろうとした理由を自伝でこう語っている。

「普通の感覚なら、そんな荒唐無稽な話に乗るわけがない。だが私は非常識なことを実現することにロマンを感じるタイプの男なのである。スケールが大きければ大きいほど、燃えてくる。アミン戦が成立すれば、これはアリ戦以上の話題になるだろう」

 まさに猪木の常識、非常識! 良い話題であろうが悪い話題であろうが「アリ戦以上の話題になる」、それこそが猪木が求めたものだったのだ。

 こうして実現に向かって動き出していた猪木vsアミン大統領だったが、この会見直後に反体制派のウガンダ民族解放軍の攻撃を受け内戦状態となり、軍内部の離反もあり失脚。アミンはリビア、そしてサウジアラビアに亡命したことで結局、幻に終わった。

 もし本当に実現していたら、猪木は国民栄誉賞どころか世界的な非難の的になっていたはず。幻に終わって良かったのだろう。

【次ページ】 猪木が国民栄誉賞を受賞しようがしまいが…

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