“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「筑波大では浦島太郎状態だった」20歳で退部“後ろめたい思い“があった母校になぜ戻った? 37歳平山相太が指導者として今、目指すもの
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byNaoki Morita/AFLO SPORT
posted2023/03/07 11:00
筑波大大学院に通いながら、母校の蹴球部でヘッドコーチを務める平山相太(37歳/写真は昨年の天皇杯2回戦)
FC東京、ベガルタ仙台とキャリアを進めていく中で、指導者への興味が湧き始めた。プロチームを率いる監督になる――そんな思いが膨らんだとき「再び大学で学び直す」という選択がすごく自然なものに思えた。
「引退してそのままかつて所属したクラブの育成年代のコーチなどになるのではなく、もう一度しっかりと学び直したいと思ったんです。“大学生活”を最後までやり遂げられなかったことも大きいかもしれません。大学を途中で離れてプロになった決断には後悔はありませんが、もっとしっかりと学びたい、大学で人間としても成長したかったという思いがずっと心のどこかにありました」
現役最後の所属チームとなった仙台と業務提携関係にあった仙台大学を勧められた平山は、小論文と面接のAO入試を受けた。現役最後の年に久しぶりの受験勉強。学びへの意欲が満たされた平山は見事に合格を手にし、32歳にして大学1年生になった。
「学んだ気になっていると成長は止まる」
18年から通い始めた仙台大では、スポーツ心理学、スポーツ社会学、運動生理学を学んだ。10代の同級生とコミュニケーションをとり、同時にサッカー部のセカンドチームの監督として現場経験を積むこともできた。
「サッカーの知識だけではなく、若い世代がどういう考え方、価値観を持っているかを知っていくことができた。学ぶ気持ちがあるかないかが重要だということが、4年間の一番の気づきでしたね。プロで10年以上プレーしたことだけで、そこで全て学んだ気になっていると成長は止まる。自分が吸収できるものが全然違ってくる。10代のときに出来なかったサッカーと勉強の両立、24時間を自分でデザインする生活を存分に送ることができた」
4年間のうちに教員免許も取得。教育実習の場はもちろん母校の国見高校だ。
「指導者であり教育者であることが僕の理想」と、小嶺監督のような理想の指導者像を再確認できる時間だったと振り返る。
そんな充実した時間が終わりに近づいた頃、再び自分の心に残る、ある思いに気づかされた。それは、未練を残したまま去った筑波大での時間だった。