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マイケル・ジョーダン60歳に…悲惨な殺人事件が起こる直前、父ジェームズが明かしたジョーダン誕生の夜「あの日のことは何があっても忘れない」
text by
宮地陽子Yoko Miyaji
photograph byReuters/AFLO
posted2023/02/18 11:04
2月17日に60歳となったマイケル・ジョーダン。父ジェームズ(右)を襲った悲劇からもう30年が経過しようとしている(写真は1992年)
私がジェームズと初めて言葉を交わしたのは、まだシカゴ・ブルズがシカゴ・スタジアムで試合をしていたとき。狭い階段を下りて、地下にあったブルズのロッカールームに行こうとしていたときに、慌ててレコーダーを落としてしまったことがきっかけだった。ちょうどロッカールーム外にいたジェームズは、レコーダーを拾い、「慌てなくても大丈夫だよ」と渡してくれた。それ以来、会うと挨拶を交わすようになった。まるで、昔からの知り合いのように。
ジェームズはジョーダンより身長が30cmも低く、アメリカ人としては小柄なほうだったのだが、それでも「双子のよう」と言われるほど雰囲気が似ていた。機械に強く、手先が器用な人で、昔から車はいつも自分で修理し、ジョーダンが子どもの頃に住んでいた家はジェームズが仲間の力を借りながら、自力で1年2カ月かけて建てたという。ジョーダン自身は車の修理も家の手伝いも好きではなかったというが、そういった作業をしているときの父のことはよく見ていたようだ。有名なジョーダンの舌出しは、もともと、ジェームズが車の修理や大工仕事で集中するときの癖を真似たものだった。
亡くなる1カ月半前の貴重なインタビュー
ジョーダンはブルックリンで生まれた。というのも、その頃、ジェームズは故郷ノースカロライナを離れ、ニューヨークの職業訓練学校で車のトランスミッションについての勉強をしていたのだ。生前のジェームズにインタビューしたときに、ニューヨークに住んでいた事情について話してくれた。
「あのころ、私はノースカロライナを離れて、クイーンズにあった学校に通っていました。仕事を見つけるのが大変な時期で、ちょうどそのころ、オートマティック車の人気が出てきたので、機械に興味を持っていた私はその仕組みを知りたいと思って、勉強するためにオートマティック・トランスミッションの学校に行っていたのです」
実は、このインタビューは、ジェームズが亡くなる約1カ月半前に行った。ジョーダン率いるブルズがイースタン・カンファレンス決勝でニューヨーク・ニックスと戦っていたシリーズ中のこと。以前から話を聞かせてほしいと頼んでいたのが、このニューヨーク遠征中に実現した。40分ほど話を聞き、続きはまた夏の間にシカゴでと約束していたのだが、それが実現する前にジェームズはこの世を去ってしまった。
でも、だからこそ、このときのインタビューは貴重だった。というのも、このインタビューでジョーダンが誕生した日のことを聞くことができたのだ。