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「『キャプテンやめろ』と何度も…本当に大八木さんは厳しかった」“退任発表”大八木監督が23年前、駒澤大を箱根駅伝初優勝させるまで
posted2023/01/11 17:03
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
Sankei Shimbun
大八木監督が母校のコーチに就任したのは28年前、1995年だった。それまで一度も箱根で勝ったことがなかったチームを名将はいかに指導したのか――? 4年前の雑誌『Number』の記事を特別に公開する(全2回の2回目/#1へ)【初出:Number992号(2019年12月12日発売) ※年齢・肩書など掲載時のものです】
◆◆◆
(初の復路優勝から)2年後の99年、駒大は総合優勝を狙える位置にいた。スタートから西田隆維、佐藤裕之、揖斐祐治、藤田敦史、神屋伸行と中心選手を並べて見事に芦ノ湖にトップでゴールした。このレースを大八木はこう振り返る。
「これ、片道切符だね(笑)。往路で攻めすぎだ。俺も若かったから、攻め、攻め、攻めの姿勢だったんだな。この時は藤田の体調が思わしくなくて、3月にはマラソンも予定してたから『2区で行け』とは言えなかった。温情かけちゃった(笑)。自分も困って佐藤と藤田に『ふたりで相談して決めてくれ』といったんです。往路は攻めた結果、優勝。ただ、7区に予定していた大西(雄三)がケガで使えなくなり、総合優勝するには選手が1枚足りなくなったんです」
9区で駒大を捉え、ひっくり返したのは名将・澤木啓祐率いる順天堂大学である。大八木からすれば、澤木はまさに「目の上のたんこぶ」だった。
「それでも澤木さんからは、いろいろなことを学ばせてもらいましたよ」
「大八木さんが『藤田、やったよ!』って」
あと一歩届かなかった優勝。しかもエースの藤田が抜けた。主将になった前田(康弘)は底上げの重要性を感じていた。
「全員で藤田さんの穴を埋めなければいけない。僕らの学年は競技力では西田と大西が引っ張って、僕はチーム全体のマネージメントに目を配り、3人で『トライアングル』を形成する感じでした。僕は下級生の走りを観察していたので、1年の松下(龍治)、2年の平川(良樹)のふたりをAチームに抜擢して一緒に練習させて欲しいと大八木さんにお願いしました。このふたり、ちょっとチャラチャラした感じがあって、駒大っぽくなくて(笑)。でも、走りには素質を感じたし、優勝するには絶対にふたりが必要だと思ったんです」
前田の眼力は、箱根で証明される。松下は5区山上りを担当し、4区の前田から3位で襷を受け取ると、箱根山中で逆転、往路優勝の立役者となる。また、平川も8区でしっかり先頭を守っている。