「平成の常勝軍団」が強豪への道を歩み始めたのは、1人のコーチを招聘した瞬間だったのだろう。6度の優勝を重ねた名将と教え子たちに話を聞き、初優勝までの知られざる、情熱的な道のりを辿った。(初出:Number992号駒澤大学 「指揮官・大八木、情熱の起点」)
2000年。世紀の変わり目を控えた箱根駅伝で、駒澤大学が初優勝を遂げた記念すべき年だ。
あれから20年。当時、コーチだった大八木弘明はまだ41歳だった。
「えっ、俺、そんなに若かったかな(笑)」
1958年生まれの大八木は苦労人だ。福島・会津工高を卒業すると小森印刷(現・小森コーポレーション)に入社するが、どうしても箱根駅伝への思いが断ち切れず、24歳で駒大の夜間学部に入学。川崎市役所に勤務しながら勉強し、練習に励む学生生活である。大八木は'84年の箱根で山上りを担当し、見事区間賞。3年時は「花の2区」でも区間賞を獲得している。しかし、4年生の時は年齢制限のために走ることは出来なかった(当時の年齢制限は27歳まで)。
その大八木が低迷していた母校から指導者として呼び戻されたのは'95年4月のことである。この年、予選会落ちの危機を感じた当時の総監督・高岡公が大八木に白羽の矢を立てたのだ。
ところが当時の駒大は戦う集団とはかけ離れた状況だったと大八木は振り返る。
「もうTVドラマの『スクール・ウォーズ』の世界。反抗的な学生もいたし、タバコは吸ってるし、朝までバイトしてから練習に来る学生もいたなあ。1年生は朝練習を切り上げて食事当番をさせられて、しかもそのメニューがこれまたひどいんだ。あれでは、競技力が上がるわけがないですよ」
大八木は腹をくくった。
「まだわが家の子どもも小さかったんですが、女房が食事を担当して、二人三脚で立て直そうと決めたんです」
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