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「笑顔の記憶はほぼない」「最近は冗談を口に…」日本ハム移籍・田中正義の“もがき苦しんだ”6年間…現地記者の本音「期待、いや祈っていた」
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2023/01/11 17:01
2016年、入団交渉でソフトバンクと契約合意した当時創価大の田中正義。近藤健介の人的補償で日本ハム移籍が決まった
そして、脚光を浴びたのが3年生の時にユニバーシアード代表としてNPB選抜と戦った壮行試合だ。同年代の若手主体のチームだったとはいえ、プロを相手に7連続三振を奪うなど圧巻の投球を披露。「すぐにでもプロで通用する!」とスカウト陣を唸らせた。
大学4年に入って右肩の不安を露呈するもアマチュア界でナンバーワンの評価は揺るがず、16年のドラフト会議で5球団競合の1位指名の末に、くじ引きでソフトバンクが交渉権を引き当てた。なお、この時には日本ハムも田中を1位入札していた。
ソフトバンクと入団合意した際には「160キロ台を出してみたい」と語り、入団発表では色紙に「沢村賞」と目標をしたためた。誰もハッタリだとは思わなかった。
なのに、なぜ歯車が狂ってしまったのだろうか。
笑顔の記憶はほぼゼロ…苦節のプロ入り後
黄金ルーキーと騒がれた1年目。当時の新聞報道を見返すと、1月の新人合同自主トレでは「おやつ代わりに納豆を食べています」と話しただけで記事になり、「正義流(調整)容認」「王会長の気遣いに感謝」など連日のように紙面に登場。キャンプイン後も「内川、松田が直球にうなる」「8割の力でバットへし折った」など威勢のいい言葉が並んでいた。
だが、キャンプ中盤になると「正義 守備は別人」(17年2月13日付、日刊スポーツ)と投内連係でミスを連発。「正義あれ荒れ152キロ」(17年2月15日付、日刊スポーツ)と初シート打撃登板で制球難と、少し雲行きが怪しくなった。
その後も「また守乱」「再び欠点露呈」と厳しい言葉が目立つようになり、キャンプ終盤になると突如名前が出なくなった。疲労などが考慮され登板頻度もペースダウン。オープン戦が始まってもなかなか合流できず、右肩のコンディション不良が判明。結局リハビリ組へ回ることになった。
ルーキーイヤーは夏前に三軍戦で少し投げ、9月になって二軍戦で“公式戦デビュー”という悔しい結果に。それでも調整途上の中で150キロ近い剛速球を披露して「やはり非凡」とチーム首脳陣らを驚かせた。