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長谷部誠18歳は“頑固”だった? ミスターレッズ福田正博の記憶「コイツ、気が強いな」「長谷部がこう言ったんだ。“俺、オフトに…”」 

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島崎英純

島崎英純Hidezumi Shimazaki

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photograph byTakao Yamada

posted2022/10/10 11:03

長谷部誠18歳は“頑固”だった? ミスターレッズ福田正博の記憶「コイツ、気が強いな」「長谷部がこう言ったんだ。“俺、オフトに…”」<Number Web> photograph by Takao Yamada

福田正博と長谷部誠。浦和を背負った2人のプレーヤーは2002年の1シーズン、チームメートという間柄だった

 高校時代の長谷部はU-18日本代表への選出歴こそあったものの、全国高校サッカー選手権大会には未出場、実績は全国高校総体準優勝くらいだったことで、彼にプロ入りのオファーを出したJリーグクラブは浦和と名古屋グランパスだけだった。

 それでも長谷部自身は自らの実力に疑いを抱かず、相応の夢を抱いてプロの舞台に打って出ようとしていた。しかし、チームを率いるオランダ人の指揮官は彼を練習にすら参加させずに蚊帳の外に置いた。野心溢れる若手のプロサッカー選手にとっては、こんな屈辱的な扱いは到底承服できなかっただろう。

福田によると、オフトは長谷部の潜在能力を買っていた

 しかし実は、オフトはかなり早い段階から長谷部の潜在能力を見初めていた。かつて日本代表チームでオフトの下でプレーし、そのオフトが浦和の監督に就任した2002シーズン限りで現役を引退した福田正博が当時のことを語ってくれた。

「これは後から聞いた話だけども、オフトは事前に長谷部のプレーを映像などで観ていて、『この選手は大成する』と確信していたらしい。ただし長谷部の性格もしっかり見抜いていて、『あまり持て囃すと自信過剰になる恐れがあるから、慎重に育成しよう』と思ったらしい。当時は自分も選手の一員だったから、監督であるオフトの思いを知らされることはなかった。でも改めて振り返ってみると、オフトは長谷部に対して様々なアクションを取っていて、かなり気を遣って接していたように思う」

 2002シーズンが始まってからしばらくして、オフトは公式戦で長谷部を公式戦の帯同メンバーへ加えるようになった。ただし、それでも実際の試合ではベンチ入りメンバーにも入れない。結局この年が終わるまで、長谷部はホーム戦、アウェー戦の全ての公式戦に同行したにもかかわらず、そのメンバーリストに加わることはなかった。

「俺の同部屋はエメルソン、もしくは高卒新人の長谷部」

 当時の様子を福田が語る。

「この頃の浦和は試合前日にチーム全体が集合してホテルに前泊していた。オフトはその際、ホテルでの宿泊を2人部屋にして、自らその組み合わせを決めていた。それはチーム最年長だった俺も例外ではなかった。そしてオフトは、俺の同部屋にエメルソン、もしくは高卒新人の長谷部を指定することが多かった」

 エメルソンといえば、後に年齢詐称や練習の無断欠席、中東への移籍騒動など数々の問題行動を起こしつつも快速FWとして浦和に貢献した稀代のストライカーである。

【次ページ】 「福さん、俺、なんで試合にも出られないのに…」

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