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「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byItsuko Hidaka
posted2022/08/12 11:02
本栖研修所時代の日高逸子。ボートレーサーとしての成功の裏には、幼少期の過酷な体験があった
同期の顔から血が吹き出し…トラウマを自力で払拭
研修所での転機はもう一度訪れた。
同期で将来のエースと称されていた長岡茂一が転覆。顔面に後続艇のプロペラが直撃して大けがをした時だ。水面が真っ赤に染まり、救急車に乗せられた彼の顔から血が吹き出していた。日高はその光景が何度もよみがえり、体が震えるほど怖くてたまらなくなって、やめようという考えが頭をよぎった。
でも、今度は自分の力で乗り切った。
「もともと私には才能がないから、人の何倍も練習していた。恐怖心を追い払うためにはもっと練習して、夢中でボートに乗るしかない」
寒風の中、燃料タンクを何度も運び、ボート練習に励んだ。トレーニングを重ねるうちに自然と体を縛り付けていた不安と恐怖が消え去っていったという。
日高は本栖研修所の訓練を振り返りながら、こう口にした。
「どんなにつらく厳しくても、私の幼少時代に比べれば、大したことはないと思ってやってきた。だから、選手のみんなが『もう二度とやりたくない』と言っている本栖研修所の訓練も、私はもう一度受けてもなんてことないし、自分からやっても構わないくらい(笑)。練習を苦に思っていないから」
この人一倍練習をする姿は、後輩にも語り継がれている。本栖研修所で日高を担当し、鬼教官として知られた本田泰三は、訓練生にこう口酸っぱく言い続けてきた。
「日高という訓練生がいた。彼女は人の何倍も努力に努力を重ねた。俺はあいつがすごい選手になると思っている。努力はうそをつかない。彼女を見習え!」
その本田の読みは見事に的中した。日高は1985年にデビューすると、2年後には一流選手の証明であるA級にランクアップされ、勝ち続けた。そのころ、追い風に乗ってエリート街道を走る日高にとって、将来を大きく左右する“運命の出会い”が待っていた。
<#3へ続く>