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「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byItsuko Hidaka
posted2022/08/12 11:02
本栖研修所時代の日高逸子。ボートレーサーとしての成功の裏には、幼少期の過酷な体験があった
荒れ狂う父、貧乏生活…「私の負けず嫌いの原点です」
祖父母と共に暮らし始めても、父の酒癖の悪さは治らなかった。入退院を繰り返し、家に戻れば荒れ狂って、手当たり次第に臼やテレビまで庭先に投げつける。祖父母と一緒に親類宅に逃げる日々……。幼い兄妹は寂しさのあまりに、近くのバス停で母が迎えにきてくれるのを待った。しかし、その姿を見ることは叶わなかった。
祖父母宅の家計は苦しく、兄と一緒に新聞配達をした。朝から配達をして、夜は集金と、遊ぶ暇はなかった。家では料理、洗濯、掃除や稲刈りをやらされた。苦しい生活だったが、歯を食いしばって耐え抜いた。
「父の暴力、母を失った悲しみ、貧乏生活……。そこから抜け出したいという気持ちが、私の負けず嫌いの原点です。自分の手で何かをつかみたかったし、誰にも負けたくはなかった」
ただ、何かをつかみたかったが、一つのことに集中することができなかった。中学と高校を通して部活動はバスケットボール、テニス、器械体操など転々とした。高校を卒業して入社した地元の信用金庫も、単純な作業が嫌で1年ももたなかった。上京した後も製菓専門学校や旅行専門学校に入学するなど、将来の方向性が定まらなかった。
幼少期から変わらなかったのが、家計の苦しさだった。東京では生活費を稼ぐために時給が高いクラブやラウンジで働き、金策に困った時はサラ金に手を染めることもあった。
衝撃的だった「年収1000万円」の競艇選手募集のCM
そんな時、人生を変える出会いが待っていた。ふとテレビをつけると、女子がボートに乗って颯爽と水面を駆け抜ける映像が目に入った。そこにこんなナレーションが流れてきた。
「ボートに乗って年収1000万円」
ぎょっとした。幼い頃から金銭的に苦労してきただけに、この収入は衝撃的だった。それは、偶然目にしたボートレーサー募集のコマーシャル(CM)だった。日高はCMで紹介された電話番号を書き留めると、ダイヤルを回していた。受験資格は年齢17歳以上、23歳未満。1961年生まれの日高は当時22歳。チャンスは1度しかなかったが「これにすべてを懸けてみよう」と願書に必要事項を書き、投函した。