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36歳中野友加里が明かす“運命の五輪選考会を迎えるまで”「いつになったらスケートが楽しくなるんだろうって」〈3歳の長女が登場!〉
text by
秋山千佳Chika Akiyama
photograph byYuki Suenaga
posted2022/02/17 17:01
元フィギュアスケーターの中野友加里さんのインタビュー。3歳になる長女と一緒にポーズ!
――佐藤信夫コーチは、安藤美姫さん、浅田真央さん、小塚崇彦さん、村主章枝さんといった名だたる選手を指導してきた方ですよね。やはり違いましたか?
中野 佐藤コーチに師事して2年目に、もう出る試合出る試合で、どんどん自分の持っている最高記録を更新できて。ずっと競技をやっていてもそんなことはまずないんです。出れば出るほど自己ベストが更新できるって、そんな嬉しいことはなかったです。
――それはガラリと変わりましたね。佐藤コーチは何が違ったんでしょうか。
中野 やっぱり先生の言葉がけだと思いますね。私は“マジック”と呼んでいたんですけど(笑)。
「努力するのも才能じゃないですか」
――マジックですか?
中野 でも言葉自体はすごく簡単なものなんです。「たくさん練習してきたから大丈夫」「80%の力を出せれば十分です」とか……。もう洗脳なのかな? 練習では怖い先生なんですよ。私も朝6時からよく怒鳴られてましたけど(笑)、本番では仏です。
――そこの切り替えで、選手は上手く乗せてもらえる。
中野 そうです。先生が選手にとって最良の言葉がけをしてくれて、一番いいスケジュールを組んで、練習量も調整してくれる。私が「自分には才能がないので練習するしかない」と言った時には、「努力するのも才能じゃないですか」「それにトリプルアクセルを跳べるというのは大きな才能ですよ」と返してくださったことがありました。その時に、この先生についていきたいと心から思いました。
――まさにマジックですね。環境を変えて自信を取り戻したことで、オリンピックという夢も近づいてきたんでしょうか。
中野 ずっと五輪は目指してきた舞台ではあったんですが、自分にとって一番近い存在になったのはトリノ(五輪)の前ですね。スケートが大ブームになりつつあって、日本のレベルが一気に上がった頃です。トリノでは代表選考から漏れてしまいましたが、自分もいけるかもしれないという立ち位置になれたことで「やっぱり出たいな」と意識し始めました。
バンクーバー五輪への4年間「思った以上に長かった」
――そこから4年後のバンクーバー五輪に照準を合わせていく。
中野 ただ、22歳を過ぎたあたりからいきなり体力が落ち始めて。23歳の時、初めて大会の途中で息苦しくなって、脚が動かなくなりました。ああ、これは体力の低下だなと。今までやってきた練習量もこなせなくなったし、こなしてしまうとケガにつながってしまいました。
ちょうど修士(大学院)を終える24歳の年が、バンクーバーの選考のシーズンでもあったので、そこが節目かなと。オリンピックに出ても出られなくても、今シーズンで最後にしようと考えました。
――バンクーバーのシーズンに引退というのは、体力面のこともあって決めていたんですね。
中野 (バンクーバー五輪を目指す4年の)後半の2年間はとにかく苦しくて、いつになったらスケートが楽しくなるんだろう、みたいな感じでした。バンクーバーまでの4年間は思った以上に長かったです。
〈#2、#3に続く〉
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