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「これでもアイドルだったのよっ」芸能界を引退し“男だけの”相撲界へ…元・高田みづえが32年間のおかみさん業を“卒業”するまで
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph byKYODO
posted2022/02/04 11:09
写真は1985年2月、婚約を発表した大関・若嶋津と歌手の高田みづえさん(紀尾井町のホテルニューオータニで)
「私が歌手だったことには変わりない。まして日高の家に嫁いで、子どもを持つ母親なのに、私自身が“高田みづえ”を引きずるわけにはいかない」――そう割り切れたのだという。相撲部屋の新米おかみとして日々を過ごしながらも、子育てにも奮闘。ご近所の奥様たちと月々3000円を積み立て、年末におしゃれをして食事会に行くのを楽しみにするなど、地元にも溶け込み、町内会役員、PTA役員なども経験したという。
東京場所での千秋楽打ち上げは、部屋の稽古場で和気あいあいとアットホームな手作りのパーティだ。みづえさん自らご近所の方々らと割烹着姿で働き、お客様を迎える時間が来ると、
「おしゃれしてメイクも時間を掛けて(笑)。自分でもわかるんです。背筋がピーンとして『おかみ』って感じになるんですね」
「成人式には赤飯を…」力士たちの“おかみさん自慢”
年に1度の地方場所では乞われてマイクを持つことはあったが「東京場所――国技館で優勝する子が出たら、唄わせてもらいたい。それまでは唄わない」と心に決めていたという。そのこころは、「うちの部屋を応援してくださる方々へ御礼の意味を込めて唄う――私なりにできる恩返しとして取っておきたかった」というのだった。
そんなみづえさんが初めてマイクを持ったのは、部屋始まって以来というほどに成績が振るわず、力士のケガも多かった時のこと。「本人たちだって辛そうなのに、一生懸命にパーティを盛り上げる姿に胸を打たれてしまった」からだった。
たまたま筆者もみづえさんの歌声を聴いたことがある。それは都はるみの『夫婦坂』だった。
<この坂を越えたなら しあわせが 待っている そんなことばを 信じて 超えた七坂 四十路坂>
稽古場のガラス窓が震えるほどの圧倒的な声。しんみりと聞き入っていた親方が、思わず目頭を押さえていた姿を憶えている。
15歳で鹿児島から歌手を目指して上京し、事務所社長宅に下宿していたみづえさんは、同じく15歳から親元を離れて相撲界に入る新弟子たちに、かつての自分の姿を重ねることもあった。
「まったく知らない世界に15歳で飛び込んで、夢もあるけど不安もいっぱいですよね。私だって社長宅に住み込んでいた時は、こんなにおしゃべりなのに、ご飯が終わると『おやすみなさい』と一言だけ挨拶して、自分の部屋にこもっちゃったりしていました。社長の奥様が、無理せず少しずつ馴染める環境を作ってくださったんです。事務所の社長の奥様をママと呼び、家事を勉強させてもらったり、クリスマスのプレゼント交換なども田舎から出て来た私には、そんな経験もなかったので、嬉しくて。当時の自分がしてもらって嬉しかったことを、今は真似しているだけなんですよ」