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「えっ!《ボランチ=舵取りが語源》って間違いなの?」 日本でほぼ無名な「名MFカルロス・ボランチ」の革命的功績とは
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTakuya Sugiyama
posted2021/12/20 17:00
2007年アジア杯の(左から)鈴木啓太、中村憲剛、遠藤保仁。タイプの違うボランチとして輝いたが、その「ボランチ」の語源を探ってみると……
ブラジルでは国内12のビッグクラブのほぼすべてに関してこの種の年鑑が出版されており(必ずしもクラブが出版するわけではない)、創立以来の全試合の記録を網羅している。選手の索引もあり、在籍した選手の出場記録などがわかる。
確かに守備的MFとしてプレーしていたようだ
「Volante」という苗字の項目を探すと、「Carlos Martin Volante。1910年11月11日、アルゼンチン・ラヌス生まれ。MF。1938~43年。150試合出場、4得点」という記述が見つかった。
Volanteという選手は、実在したのだ。
アルゼンチン出身。150試合に出場して得点4は攻撃的MFとしては少ないから「守備的MF」という説明とも合致する。
それから、ブラジルのフットボール関連の書籍や雑誌を見たり、インターネットで記事を探した。アルゼンチンでの報道も、可能な限り調べた。すると、この男のキャリアと人生が浮かび上がってきた。
彼の苗字の発音をできるだけ忠実にカタカナ表記すれば、ブラジル・ポルトガル語では「ヴォランチ」、スペイン語では「ボランテ」となる。 選手名の表記は出身地の言語による発音を尊重するのが基本だろうが、ここでは「ボランチ」と表記する。
生年月日は、「フラメンゴ年鑑」の記述は誤りで、正しくは1905年11月11日。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの南部に隣接する中都市ラヌスで生まれた。父親がイタリア人移民で、7人兄弟の上から4番目だった。
10代前半で、アマチュアクラブでプレーを始める。1915年、地元にCAラヌスというプロクラブが創設され、1923年、17歳でこのクラブのアカデミーに入団。翌1924年、トップチームからデビューした。ただし、当時のアルゼンチン・リーグはアマチュア。彼が他に職業を持っていたかどうかは、わからない。
その後、サンロレンソ、ベレス・サレスフィールドといった国内の強豪クラブで活躍し、1929年、アルゼンチン代表に招集されてウルグアイ戦に出場。1930年にもユーゴスラビア戦に出場している(ただし、1929年のコパ・アメリカ=南米選手権=と1930年の第1回ワールドカップには招集されていない)。
ナポリに移籍後はヨーロッパでプレー
アルゼンチン・リーグがプロ化されたのは1931年だが、この年、すでにプロ化していたイタリア・セリエAのナポリから好条件で誘われ、大西洋を渡る。
アルゼンチン人選手は、1910年代からイタリアのクラブでプレーしていた。1929年にセリエAが創設されると、さらに多くの南米選手がイタリアでプレーするようになっていた。
カルロス・ボランチはリボルノやトリノでもプレーし、トリノ在籍中の1934年、貴族の末裔で外交官を父に持つイタリア人女性と結婚する。
この頃の彼の写真が残っているが、長身で筋骨たくましく、細面でハンサム。まるでハリウッド俳優のようだ。