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「お前もボランチのようにプレーしろ」中盤深めで守備の要+攻撃の起点=ボランチ… “伝説の初代”ナゾ経歴を調べてみた

posted2021/12/20 17:01

 
「お前もボランチのようにプレーしろ」中盤深めで守備の要+攻撃の起点=ボランチ… “伝説の初代”ナゾ経歴を調べてみた<Number Web> photograph by J.LEAGUE

ジュビロ時代、福西崇史を指導するドゥンガ。ボランチと言えばブラジル人の中盤の名手が思い浮かぶが「カルロス・ボランチ」はアルゼンチン人だった

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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日本のサッカー用語でおなじみのフレーズ「ボランチ」。その語源について考察していくと、面白い背景が見えてきた(全3回/#1#3

 フラメンゴの全試合の記録を網羅する「フラメンゴ年鑑」によると、カルロス・ボランチは1938年8月18日に行われたアトレチコ・ミネイロとの練習試合で初出場。この年のリオ州選手権は8月末に開幕し、10月9日のボタフォゴ戦で初先発すると、以後、全試合にフル出場している。

 当時、ブラジルでは「WMシステム(3-2-2-3)」のフォーメーションが一般的。各ラインは、概ね並行だった。しかし、フラメンゴのフラビオ・コスタ監督(後に自国開催の1950年ワールドカップでブラジル代表を率いて準優勝)は、2列目の「2」と3列目の「2」を左肩上がりにするフォーメーション「ジアゴナウ」(斜め線)を考案。その核となる選手が、カルロス・ボランチだった。

攻守分業制だった当時では革命的なプレースタイル

 中盤の深い位置で、豊富な運動量と球際の強さで中盤の守備の要となる。その一方で、視野が広く、優れたテクニックを生かし、攻撃の起点にもなった。

 現在では、攻撃の選手でも守備で、また守備の選手でも攻撃で一定の役割を果たすのは常識だ。フィールド・プレーヤーはもちろん、GKですら攻撃の役割を担う。しかし、当時は、攻撃と守備は分業制だった。カルロス・ボランチのように中盤で幅広く動き、攻守両面でチームに貢献する選手はそれまで存在しなかった。当時のブラジルのフットボールにおいて画期的、革命的な選手だったのである。

 1939年、フラメンゴはリオ州選手権で12年ぶり7度目の優勝を飾る。攻撃の中心は、前年のW杯フランス大会の得点王レオニダス・ダ・シウバ、最終ラインの要はやはりW杯でブラジル代表の守備を支えたCBドミンゴス・ダ・ギア、そして中盤で攻守に奮闘したのが1938年杯ではブラジル代表の“マッサージ師”だったアルゼンチン生まれの守備的MFカルロス・ボランチだった。

「お前もボランチのようにプレーしろ」

 フラメンゴに歯が立たなかったライバルクラブの監督たちは、自分のチームの守備的MFに、「お前もボランチのようにプレーしろ」と指示した。この「ボランチのように」がいつしか「ボランチとして」となり、彼の名前がポジションとその役割を表すようになった。カルロス・ボランチ。“世界最初のボランチ”の誕生である。

 彼は、1943年までフラメンゴで絶対的なレギュラーとして活躍。1940年と1941年は準優勝だったが、1942年と1943年にも優勝した。彼が在籍した6季で3度、リオ州選手権を制覇したのである。

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カルロス・ボランチ

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