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18年前の新庄剛志、巨人・原監督から電話オファーも「これからはパリーグです!」振り返れば28歳新庄は“12億円”を捨て、“2200万円”を選んだ 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/12/12 11:02

18年前の新庄剛志、巨人・原監督から電話オファーも「これからはパリーグです!」振り返れば28歳新庄は“12億円”を捨て、“2200万円”を選んだ<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1992年5月28日の大洋戦。プロ初本塁打を打った2日後、猛打賞でお立ち台に上がった20歳の新庄剛志(阪神)

 オフもヘッドスライディングが代名詞の亀山努との“亀新コンビ”に取材依頼が殺到。『週刊ポスト』92年12月18日号では、その様子を亀山自身が「新庄が取材の場所まで来といて、“亀山さん、『アン、アン』て何ですか”やて。これで阪神のトレンディボーイなんやから、信じられんワ」なんてネタにする。翌93年に新庄は背番号5を託され、23本塁打を放ち外野手部門のベストナインとゴールデングラブ賞を初受賞。瞬く間にスター選手へと駆け上がり、阪神タイガースの新たな顔となる。

突然の引退宣言「センスがないから辞める」

 しかし、皮肉にも華とスター性がありすぎて、なにをやっても新庄だけが目立つ。自著『もう一度、プロ野球選手になる。』(ポプラ社)によると、地元・福岡の大先輩、真弓明信の活躍で阪神が勝った試合の翌朝、在阪スポーツ新聞の一面は「新庄、髪を切った」だったという。さすがにこれには本人も絶句する。遠征の移動中も常に記者が追うので、次第に同僚選手から避けられるようになる。もちろん男同士の嫉妬もあっただろう。練習する姿を周囲に見せたくないというプロの美学が誤解を招くこともあった。気がつけば、チームから浮いていたのだ。

 95年オフには監督との野球観の違いや足首の故障時にグラウンドで正座を命じられた件がこじれ、「センスがないから辞める」と唐突に引退宣言。2日後に撤回するが、当時の『週刊ベースボール』に交渉にあたった沢田球団代表の「彼は、ちょっと人と違う。どう説明していいか、僕のボキャブラリーでは言い切れない。考え方が、ちょっと違うんや」と困惑したコメントが残されている。その頃、阪神は万年Bクラスの低迷期に入り、チームの顔の背番号5に対する風当たりも強くなる。97年のオールスター戦では、阪神ファンを中心に応援ボイコットされ、大阪ドームのグラウンドにペットボトルやメガホンが投げ込まれ試合が中断してしまう。

「知らない番号だったから」横浜関係者の電話に出ず

 リーグ最低打率かと思えば、リーグ最多捕殺でゴールデングラブ賞の常連。次に何をするか読めない男は99年に野村克也監督がやってくると、投手との二刀流プランや巨人戦で敬遠球を打ってのサヨナラ安打も話題になった。打率.278、28本塁打、85打点、15盗塁とキャリアハイの成績を残した2000年にはFAで関東の球団への移籍が確実視されたが、交渉解禁当日に横浜関係者が電話を入れるも「(表示が)知らない番号だったから」と繋がらず。もしも、このときに電話に出て横浜移籍を決断していたら、平成球史も大きく変わっていただろう。かと思えば、ヤクルト入りを見越して東京の住居を探したことが週刊誌を賑わした。当然、阪神も大型契約で生え抜きスターの流出を阻止しようとする。しかし、28歳の新庄が決めた新天地はまさかのニューヨークだった。

【次ページ】 巨人・原辰徳監督からの電話も…「これからはパリーグです!」

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