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ぶら野球BACK NUMBER
18年前の新庄剛志、巨人・原監督から電話オファーも「これからはパリーグです!」振り返れば28歳新庄は“12億円”を捨て、“2200万円”を選んだ
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/12 11:02
1992年5月28日の大洋戦。プロ初本塁打を打った2日後、猛打賞でお立ち台に上がった20歳の新庄剛志(阪神)
打率4割超えと大活躍した日米野球が終わった直後の11月30日に正式オファーがあり、12月11日にメジャー行きを表明。5年12億円を提示したNPB球団ではなく、1年契約の年俸2200万円、契約金・出来高を含めても最大1億1000万円のメッツを選んだのだ。その新天地ではオレンジ色のリストバンドを身につけ、打率.268、10本塁打という成績でときに4番を打ち、翌年トレードされたサンフランシスコ・ジャイアンツではバリー・ボンズとともに外野を守り、日本人選手初のワールドシリーズ出場を果たした。あの周囲が過剰に気を使う超大物ボンズにも物怖じすることなく接すると気に入られ、良好な関係を築く。
巨人・原辰徳監督からの電話も…「これからはパリーグです!」
メジャーからマイナーまでを経験して、03年秋には日本球界復帰を表明。ここでSHINJOは古巣・阪神でも原監督が誘いの電話をかけてきた巨人でもなく、「これからはメジャーでもない。セリーグでもない。パリーグです!」と北海道に移転したばかりの日本ハムファイターズを日米プロ15年目の舞台に選ぶ。04年のオールスター戦では球宴史上初の単独ホームスチールでMVP獲得。球界再編の真っ只中、ストライキ明けの9月20日ダイエー戦では、札幌ドームでかぶりものパフォーマンス“ゴレンジャー”を結成して、9回裏に劇的サヨナラ満塁弾かと思ったら、一塁走者・田中幸雄が新庄に抱きつき走者追い越し判定で単打に。北海道のファン、そしてチームメイトまで背番号1に乗せられ躍動した。日本ハムは3位に入り、32歳の新庄も打率.298、150安打と自己最高成績を更新。ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞する。
右手に死球を受け、「右小指球部挫傷」で戦線離脱した05年は108試合の出場にとどまり、ゴールデングラブ賞に選出されるも、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んで欲しい」と異例のコメントを発表。その派手なイメージとは裏腹に、守備にこだわり、新人時代に7500円で買ったグラブを手入れしながらずっと使い続ける職人肌の一面も持っていた。
この年限りで日本ハムとの2年契約が終了し去就が注目されたが、11月に年俸2億2000万円アップの総額3億円の1年契約で残留が発表される。ダース・ベイダーに扮しての始球式や自腹で350万円かけて作った特殊メイクのマスクまで、あらゆるパフォーマンスをやった。やり残したことは、もう一度札幌ドームを超満員にすること。日本ハムを優勝させることだ。
そして、迎えた2006年。稀代のトリックスター新庄剛志は、「最後の1年」を迎えることになる。<後編へ続く>
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