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熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「3人の天才は遠藤保仁と…」「ツネ、中澤、闘莉王は素晴らしいCB」 シジクレイ49歳の日本サッカー愛が熱い〈今何してる?〉
posted2021/12/10 17:25
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
2011年、彼の生まれ故郷であるブラジル南部カスカヴェウでインタビューした。当時は、まだ現役選手だった。
サンパウロから夜行バスで向かうと早朝、バス・ターミナルまで車で出迎えてくれた。朝食をご馳走になり、自宅でじっくり話を聞いた。
愛妻ロシェーリさん、長男のシジクレイ・フィーリョ君(当時10歳)、次男のカウアン君(当時7歳)、三男のカレーベ君(当時3歳)にも紹介してもらった。ロシェーリさんが「彼も私も、日本と日本の人たちが大好きなの」と大輪の花のような笑顔で話してくれたのをよく覚えている。
それから10年。インタビューを申し込んだところ、一家で国内旅行中で、サンパウロにも立ち寄るという。サンパウロ市内の彼の滞在先で、たっぷり話を聞かせてもらった。
夫妻はほとんど変わっておらず、相変わらず仲睦まじかった。まだ子供だった長男は父親の背丈を越え、逞しい若者に成長していた。次男も三男も、すっかり大きくなっていた。
山形時代は寮生活、NECの社員食堂で日本食
一家の大黒柱で丸刈り頭の巨漢は、49歳になっても現役時代と全く同じ体型を維持していた。しかし、全身からほとばしらせていた激しい闘志は姿を消し、柔らかい笑みを浮かべている。
父親がアマチュア選手で、叔父、いとこがプロ選手というフットボール一家。1歳上の兄ジャン・カルロも、MFとしてパルメイラス、クルゼイロといったビッグクラブで活躍した。
19歳のとき、マツバラ(日本人移民が創設したクラブで、三浦知良も若手時代に在籍)でデビュー。当時はボランチだった。
1997年、24歳で当時JFLのモンテディオ山形に入団。寮で生活し、山形の母体企業だったNECの社員食堂で毎日、日本食を食べた。
「通訳がおらず、言葉がサッパリわからない。食事も、最初は口に合わなかった。ブラジルでは肉は塩味と決まっているのに、甘いんだから(苦笑)。おまけに冬はひどく寒い。ホームシックになりかけたが、歯を食いしばって頑張った」
山形で2シーズン活躍し、1999年、京都パープルサンガ(当時J1)へ移籍。大分トリニータ(当時J2)、ヴィッセル神戸を経て、2004年から2007年までガンバ大阪でプレー。宮本恒靖や山口智らと共に、最終ラインの中心選手として活躍した。