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「当時から三笘と旗手はずば抜けていました」上田綺世にとっての“代表”と控えめな自己評価のワケ「僕は井の中の蛙でしかない」

posted2021/12/09 17:04

 
「当時から三笘と旗手はずば抜けていました」上田綺世にとっての“代表”と控えめな自己評価のワケ「僕は井の中の蛙でしかない」<Number Web> photograph by Getty Images

第33節のFC東京戦で決勝ゴールをあげた上田綺世。日本代表ではチームメイトとなる長友佑都と激しく火花を散らした

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寺野典子

寺野典子Noriko Terano

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鹿島アントラーズのジュニアユースからユースへ昇格できなかったが、法政大学時代には東京五輪を目指すU-20日本代表に選ばれ、2019年夏には東京五輪世代中心のA代表としてコパアメリカにも出場。そしてその後、鹿島アントラーズでプロデビューした上田綺世。2年連続の二桁ゴールで鹿島のエースとなった23歳が思い描く「理想のFW像」とは(全2回の後編/前編へ)。

 上田が子どものころから、ひとつひとつのことをかみ砕き、思考して、論理的に消化することを成長の糧としてきたのは、体の小ささも影響していたに違いない。けれど、鹿島学園で過ごした高校時代に成長期を迎えても、そのスタイルに変化はなかった。

「感覚でプレーできるなら、それでいいと思うんです。でも僕はそういう選手じゃなかった。今は身体能力もあるほうで、体も小さくないし、弱くもない。だから、なんとなく感覚でやれちゃうんだろうなと思われるんですけど、実際の僕はそうでもなくて、『どうしよう、こうしなきゃ。こうしたいから、ああしてみよう』と考えながらプレーするタイプ。今もそうですが、昔からそういうタイプでしたね」

世代別代表に選出「間違いかと思いました」

 試合に出るために、何をすべきか。その試行錯誤の末に高校時代にストライカーとしての個性を磨いた上田が進学した法政大学。同期の1998年生まれ組には、全国レベルのトップ選手が集まっていた。

「茨城県で井の中の蛙だった僕が、全国レベルの環境に行ったのが法政大学でした。僕らの代はJクラブユース出身の選手も多く、いい選手が揃っていた。鹿島学園のお山の大将が行くような場所ではなかったと思います。入試のときもプレミアリーグ(高円宮杯U-18サッカーリーグ)や代表の話で持ち切り。高体連出身の選手も半分くらいいましたが、肩身は狭かったですね。そういう場所で何かできることがあるのか、というところからのスタートでした」

 大学1年時の抱負として「学びと挑戦」という言葉を掲げた上田。

「自分に何ができて、何ができないかを知るには挑戦しかない。それは海外の選手のプレーを見て、試して、考えてを繰り返した小学生時代と同じです。同年代のチームメイトとは、スピード感が全く違いました。それに慣れて、自分を出していかないと、試合に出られないし、プロにもなれない。大学時代はプロになるための最後のチャンスです。高校ではこういうプレーをしていたけど、この環境では必要ないなというのを精査していきました」

 1年の後期リーグではレギュラーに定着し、2年時の2018年には全日本大学サッカー選手権大会で優勝するチームをけん引している。

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