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リオ直前“選手生命危機の大ケガ”から5年、東京五輪で走り高跳び金を分かち合い… イタリア&カタール人のエモすぎ友情物語
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byYohei Osada/AFLO
posted2021/08/06 17:03
タンベーリとバルシムはライバルであり、戦友であった
3月にポートランド(米国)で開催されたインドア世界選手権を2m36で初制覇。さらに、7月10日にアムステルダムで開催された欧州選手権でも、2m32を跳んでイタリア人として初優勝を果たした。
父は悲運の交通事故でロス五輪を断念
コーチの実父マルコは、80年モスクワ五輪の走高跳ファイナリストだ。国内有数のジャンパーだったが悲運の交通事故により、大会直前で84年ロス五輪を断念。引退した彼は息子ジャンマルコに五輪の夢を託した。
ジュニア時代から非凡な才能を見せ、反抗期もあったが一流ジャンパーへめきめき成長したジャンマルコは、甘いマスクの顔半分だけヒゲを剃り残す奇抜な風貌や観客を巻き込むパフォーマンス、破天荒な言動から「ハイジャンプ界のロックスター」(ガゼッタ・デッロ・スポルト紙)と呼ばれるほどの人気者になっていた。
だが、勇んで臨んだロンドン五輪で何もできないまま予選落ち。惨敗に目が覚めたジャンマルコは競技に専心することを決意し、イタリア陸上界きっての親子鷹は、次大会の表彰台へ目標を定めると記録を伸ばし続けた。
リオ五輪前の最後の試合、本番でも顔を合わせる選手たちが勢揃いしたモンテカルロの競技場で、タンベーリは、イタリア新記録となる2m39を跳んだ。
身体は軽く、五輪本番前に大台を越えて自信をつけておきたかった。2m41にバーを上げてもらい、両手を大きく叩いてリズムを刻む拍手をくれるよう、観衆を煽った。その試技を行なった瞬間まで、タンベーリは自他ともに認める、リオ五輪の有力なメダル候補だった。
大怪我に泣き崩れるタンベーリに……
踏み切った左足が歪んだ。背中がバーを打ち、重力によってマットへ叩きつけられる前に、タンベーリはリオ五輪出場が幻に終わったことを悟った。
マットの脇へ力なくへたり込み、顔を両手で覆った。
「……嘘だろ。ノー、ノー! そんな馬鹿な!」
タンベーリの左足首と脛骨をつなぐ数本の腱はズタズタに裂かれていた。五輪出場が不可能になったのはもちろん、競技生活続行さえ危ぶまれるほどの大怪我だった。
泣き崩れるタンベーリに、真っ先に歩み寄ったジャンパーがいた。