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「スマン、こんな晴れ舞台慣れてない」 警察官なのにタトゥーでヤンチャなイタリア人が“大波乱の100m最速男”になるまで《東京五輪》
posted2021/08/06 17:02
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph by
Asami Enomoto/JMPA
国立競技場のトラックを青いユニフォームが駆け抜けた。
東京時間8月1日21時53分。「あれは誰だ?」と世界中の人間が訝しんだにちがいない。
五輪の花形、男子100mを9秒80で制したのは、ラモントマルセル・ジェイコブスという無名のイタリア人スプリンターだった。欧州選手が同種目を制するのは、1992年のリンフォード・クリスティ以来の快挙だ。
ゆ、夢じゃないですよね……?
ウサイン・ボルトが五輪3連覇を達成したリオ大会のタイムに0.01秒先んじて世界最速の男になったジェイコブスは、レース後も夢見心地で母国イタリアの記者団に何度も確認した。
「信じられない。俺が本当にオリンピックで金メダルを獲った……? ちょっと待ってくれ、夢じゃないですよね? レースの後、ファイナリストの皆が祝福してくれて記念撮影したんです。(これまでの習慣で)脇に立ったら、皆が『オイオイ、勝ったのはおまえだろ。主役がセンターにいなきゃ駄目じゃないか』って。『スマン、こんな晴れ舞台に慣れてないから』って思わず謝りました」
ジェイコブスは大穴中の大穴だった。
彼の名がイタリア国内にもようやく知られるようになったのは、今年5月13日に新ナショナル・レコードとなる9秒95を出したときだ。それまでイタリア短距離界の顔といえば、18年6月に同国陸上競技史上初めて10秒の壁を破り、テレビCMにも出演する4歳年下の童顔スプリンター、フィリッポ・トルトゥの方がはるかに知名度は上だった。
本職は警察官、波乱に満ちた半生
26歳のジェイコブスの本職は国家警察スポーツ局所属の警察官だが、丸刈りと全身刺青の彼の半生は波乱に満ちている。
母ビビアーナは18歳のときに、米国テキサスでマルセルを生んだ。生後半年でアメリカ海軍兵だった父ラモントの在韓基地転属が決まると、若き母は別離を選び、息子を連れて祖国イタリアへと戻った。
北イタリアにあるガルダ湖湖畔の小さな町での母子2人暮らし。マルセル少年はかなりの偏食で、茹でてツナを和えたパスタしか食べなかったらしい。