JリーグPRESSBACK NUMBER
元讃岐の守護神で元FC東京広報、家木大輔はなぜポルシェに転職した? 恩師・北野誠監督の言葉と、石川直宏がつないだ縁
text by
松本宣昭Yoshiaki Matsumoto
photograph byYoshiaki Matsumoto
posted2021/06/29 17:00
現役を引退後はJクラブの裏方として活躍してきたが、サッカーとは違う畑での挑戦を選んだ家木大輔さん
姫路獨協大学4年の春先まで、家木は他の同級生と同じように就職活動に励んでいた。将来的には家業の工務店を継ぐ可能性も考えて、住宅メーカーを中心に説明会へ足を運んでいた。
ところが6月、突然サッカークラブから選手としての“内定通知”が届いた。オファーをくれたのは、当時四国リーグを戦っていたカマタマーレ讃岐。関西学生リーグ1部でのプレーが評価された。
「僕がGKを始めたのは、(姫路市立琴丘)高校2年からなんです。素人同然の状態からチームと一緒に成長して、大学でも試合に出られるようになった。なんとなく、地域リーグからJリーグを目指してチャレンジする讃岐の姿が、自分と重なったんですよね」
ADVERTISEMENT
晴れて契約書にハンコを押した。ただし、アマチュア契約。年俸は「0円」。月1万円の寮費も、アルバイトで稼がなければならない。ホテルの宴会場、スポーツショップ、学童保育所など、あらゆるバイトをこなした。
ホテルのウエイター、学童保育……
「朝9時から練習をして、お昼ご飯を食べて、夜までバイトをする。大変でしたし、生活も苦しかった。でも、すべてサッカーのためだと思うと楽しかった。だから、3年目からはプロ契約になったんですけど、できる限りバイトは続けていました。
あの経験は、その後の人生にもすごく役立ちましたよ。ホテルのウエイターとして、VIPの方への対応やおもてなしの作法も学びましたし、学童保育では子供たちと、その保護者のみなさんへの接し方も学べた。選手引退後、試合運営や広報、プロモーション担当として働く上で、現役時代からいろんな人とのつながりを持てたことは、すごく良かったと思います。僕は学生の頃から、“自分が”というよりも、チームで頑張る、みんなで目標に向かうのが好きなんです。一緒に戦う仲間がいるからこそ自分も生きる」
家木は2年目途中から正GKのポジションをつかみ、JFL昇格に貢献した。その後は負傷に悩まされ出場機会を減らしたものの、選手会長としてチームを支え、5年目の2013年にJ2リーグ昇格を果たした。