濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
「腹立たしいんですよ」“2021年のUWF”は殺伐とした対抗戦に 佐藤光留はなぜ田村潔司に激怒したのか?
posted2021/06/17 12:07
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph by
Norihiro Hashimoto
前田日明、高田延彦ら数多くのスター選手が所属したUWFは“運動体”だと言われる。単なるプロレス団体の名前ではなく、それ以上の意味があるものだと受け止められてきたのだ。その“運動”は、実は今も続いている。
第1次UWFの旗揚げは1984年。新日本プロレスでのクーデター騒動から生まれた団体だった。今で言う“インディー”のUWFは独自性を出すべく、また自分たちの理想のプロレスを追求すべく、ショー的要素を排したプロレスを見せるようになる。
ロープに飛ばず、派手な飛び技を使わずキックボクサーのような蹴りを繰り出し、腕ひしぎ十字固めやスリーパーホールドといった地味な技が“決まれば必殺”であることを知らしめた。UWFの闘いは圧倒的に新しく、なおかつプロレスの原点回帰でもあるとされた。
タイガーマスクからザ・タイガー/スーパータイガーと名を変えた佐山聡は試合だけでなくルール作りにも関わった。言うまでもなく、佐山は総合格闘技の老舗シューティング(修斗)の創始者である。
アントニオ猪木はモハメッド・アリ戦など数々の異種格闘技戦でプロレスの強さを示そうとした。新日本から離れたUWFは、しかし猪木と新日本のイズムを徹底したのだと言ってもいい。
新日本に対抗するだけの力を持ったUWF
第1次UWFは経営難により新日本と業務提携、選手たちは古巣のリングに乗り込むことになった。いわば出戻りだが、彼らはここで“信者”を増やした。そのファイトスタイルは、新日本のレスラーたちが見せるものよりリアリティがあったのだ。プロレスファンで柔道部所属の中学生だった当時の筆者にも、たとえばレスラーが裸絞めで失神したりギブアップしたりすることに「やっぱりそうなるよな、それが“本当”だよな」という納得感があった。付け加えておくと、当時は打撃も寝技も何でもあり、なおかつプロのビジネスとして成立しているジャンルはプロレスしかなかった。
そして1988年、新日本から契約を解除された前田が中心となり、第2次(新生)UWFがスタート。大会は月1回ビッグマッチ主体、新日本や全日本と違いテレビのレギュラー中継もない。それでもこの団体は爆発的な人気となる。
人気作家やミュージシャンが熱く支持を表明し、地方のファンも単発の特集番組の録画やレンタルの試合ビデオを何度も繰り返し見た。1989年11月には東京ドーム大会を開催している。新日本のドーム初開催は同じ年の4月だ。UWFは業界最大手に対抗するだけの力を持っていたのである。