酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
佐々木朗希は5回4失点だけど… 大谷、松坂、ダル、田中、カネやんら大エースのプロ初登板とその後の成績はどうだった?
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2021/05/17 17:03
5回4失点ながらまとまった投球を見せた佐々木朗希。彼の潜在能力がどこまで発揮されるか、野球ファンなら注目したい
巨人のエース、堀内と江川はどうだった?
V9時代の巨人のエースとして203勝を挙げた堀内恒夫は1963年、甲府商の1年のときに、3年の大石勝彦(のち大洋、東映)の控え投手として夏の山梨県、西関東大会を勝ち抜き、全国大会に出場する。武雄高、宮崎商を破って3回戦に進出したものの、この年優勝した明星高に敗戦した。
堀内も宮崎商戦、明星高戦に投げた。しかし堀内は甲子園では投げていない。この年の選手権は甲子園球場と西宮球場が併用され、甲府商は西宮球場グループに入っていたのだ。以後2年も西関東大会で敗退、堀内は甲子園の土を踏むことがなかった。「甲子園は、入場行進しただけだよ」と述懐している。
堀内の世代から始まったプロ野球ドラフトで、堀内は1位で巨人に入団。1966年4月14日の中日球場での中日3回戦で先発のマウンドを踏んだ。
試合前、記者団に囲まれ緊張していた堀内に、前年、国鉄から巨人に移籍していた金田正一は「きょうはルーキーが初めて先発するんじゃ、そっとしといてやってくれ」と声をかけた。堀内は第1球をバックネットの上部にぶつけた。それで気持ちが落ち着いた堀内は、6回を自責点1で降板。宮田征典の救援を仰いだが初勝利を挙げた。
堀内は試合後のインタビューで「おふくろに電話しなきゃ」と語った。ここから堀内は快投の連続で16勝2敗で新人王を獲得。物おじしないキャラクターから「悪太郎」の異名を取っている。
江川の初登板では拍手と歓声が入り混じった
江川卓は1977年、法政大学時代にクラウンライターに1位指名されたが入団せずに渡米。翌1978年のドラフト前日に帰国し「空白の1日」で巨人と契約。しかし金子鋭コミッショナーはこれを認めず、この年のドラフトで阪神が1位指名。江川の去就は「江川事件」と言われるほどの大問題となった。
コミッショナーは江川が阪神にいったん入団し、その後トレードで巨人に移籍する「金子裁定」を提示。江川は巨人のエース小林繁とのトレードで巨人に入団したが、1979年の開幕時はチームへの合流を自粛。5月末に一軍に昇格し6月2日、後楽園球場での阪神戦に先発した。