熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
【独自】“交際0日で結婚→育児してブラジル柔道監督” 藤井夫妻の7歳愛息が日本人初のフラメンゴ加入!「いつかタケフサと…」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHaruki Fujii
posted2021/05/05 17:02
日本人として初めて“フラメンゴの一員”となった7歳の藤井清竹君
父・陽樹さん(34)は、東京都出身。群馬県沼田市の高校サッカー部でFWとして活躍した。高校卒業後、東京の専門学校で2年間、スポーツトレーニングを学んだ後、東海大体育学部に入学。大学を卒業後、欧州旅行中にロンドンで裕子さんと出会う。平塚市の養護学校で教員として働いていたが、2013年初めに裕子さんと結婚。教員を辞職して裕子さんと共にブラジルへ渡り、以後は裕子さんの柔道プロコーチ業を支えるべく、"主夫"として家事、育児の大半を担ってきた。
フットボール好きは変わらず、リオのアマチュアリーグで活躍。清竹君のフットボール修行の水先案内人にして伴走者である。
フットボール修行が始まったのはゼロ歳
その修行は、清竹君がゼロ歳のときに始まった。
裕子さんは、清竹君の出産から4カ月後、コーチの職務に復帰。母乳で育てることにこだわり、リオ市内での練習には常に清竹君を帯同した。陽樹さんが世話をして、練習の合間に裕子さんが授乳。陽樹さんは練習場に小さなボールを持ち込み、清竹君とボールで遊んだ。
ブラジル人は、子供が大好きだ。清竹君は練習場のマスコット的存在となり、選手たちは練習の合間に一緒にボールを蹴って遊んでくれた。
3歳のとき、一家が住むリオ市内のマンションの管理団体が子供のためのフットボール教室を開設。すぐに入った。
「ブラジルではサッカーがうまいと認めてくれる」
ただし、家では日本語しか使わないから、当然、ポルトガル語はわからない。同じ頃に通い始めた幼稚園でも、先生やクラスメイトとの意思の疎通に苦労した。
陽樹さんが、当時を振り返る。
「言葉がわからなかったせいか、4歳になると『サッカー教室に行きたくない』と言い出した。無理に行かせても仕方がないので、しばらく練習を休ませました」
幼稚園でも不安そうで、いつも先生にしがみついて庇護を求めた。しかし、1年ほどたつと言葉がかなり理解できるようになり、「またサッカーの練習に行きたい」。今度はうまく馴染め、どんどん上達した。
「ブラジルでは、サッカーがうまいと周囲が認めてくれる。そのことで自信をつけたようです」(陽樹さん)
2019年10月、リオ市内のフットサルチームを集めてCFZ(ジーコ・フットボール・センター)で開催された「ジーコ・カップ」にフットボール教室のチームが参加。清竹君は中心選手として活躍した。参加チームの一部には、普段はリオのビッグクラブの下部組織に所属する子が"補強選手"として加わっており、大きな刺激を受けた。
また、この年の6月から7月にかけてブラジルで開催されたコパ・アメリカ(南米選手権)に参加した日本代表の試合を観戦し、練習も見学。レアル・マドリー入団が発表されて大きな話題を集めていた久保建英ら日本代表の選手たちと交流する機会があり、一緒に写真を撮ったり握手をしてもらって、久保の大ファンになった。