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「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは? 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph by「ボクシング百年」資料写真

posted2021/02/13 11:02

「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?<Number Web> photograph by 「ボクシング百年」資料写真

日本に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた嘉納健治(右)。彼が興行を取り仕切っていた神戸の劇場・聚楽館(左)

 14世紀、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇が、福原(現在の神戸市兵庫区福原町)上陸後、神功皇后以来の由緒ある御影の地に立ち寄った。その際、霊泉「澤乃井」の管理者より泉から造った酒を献上される。喜んだ天皇はこの管理者に「嘉納」の姓を授けた。「褒め喜び納める」という意味で、名家の起源と酒造業を始めた由来はここにある。

 幕末期には海運事業でも財をなし、勝海舟のパトロンとなった嘉納治郎作が神戸と西宮に砲台を建設。この治郎作は明治政府に出仕し、海軍権大書記官を拝命する。

 八代目当主の嘉納治郎右衛門に至っては、菊正宗の経営に加え、土地、建物の投資事業から灘商業銀行(のちの神戸銀行)を設立。黎明期の関西財界を牽引する一方、名門進学校となる灘中学校(現在の私立灘中学校/高等学校)を創設するなど、その働きは嘉納財閥の惣領に相応しい。そして血脈は、政財界、教育界、スポーツ界、文壇にまで列なる。

 そんな、閨閥を絵に描いたような嘉納一族にまったくそぐわない、いたく無頼な人物が現れた。──それが嘉納健治である。

「その昔“ピス健さん”って呼ばれていた人でしょうか」

 1881(明治14)年9月24日、神戸御影に生まれ、博徒、興行師として雷名を轟かせたこのやくざは、正真正銘、名家の嫡流に列なる。七代目当主嘉納次郎右衛門の長女はつが、治一という婿養子との間にもうけた三兄弟の次男として生まれたのだ。

 資料の少ない件の人物の輪郭を把捉しようと、筆者は2015年の夏、神戸まで出向き、東灘区の御影周辺をほっつき歩いては、高齢とおぼしき通行人につぶさに声をかけてみた。空襲と震災の影響から再開発が進み、古い面影の少ない御影一帯だが、阪神電鉄御影駅南口からの阪神高速下、国道43号線までの町並みは、土地柄か今も酒屋が多く、往時の名残も残していた。

「その、嘉納なんやらいう人は、その昔“ピス健さん”って呼ばれていた人でしょうか」

 そう訊き返したのは、見るからに上品な身形をした87歳の老婦人だった。首を傾げながら、昔の記憶を絞り出してくれた。

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