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「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by「ボクシング百年」資料写真
posted2021/02/13 11:02
日本に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた嘉納健治(右)。彼が興行を取り仕切っていた神戸の劇場・聚楽館(左)
「私らが子供の頃は、菊正宗のハッピ着たピス健さんの子分が、家を一軒一軒回って、聚楽館(しゅうらくかん)の切符をいっつも配ってましたわ。それで妹を連れて、ようスケートに行きました」
聚楽館とは1913年、当時の神戸最大の歓楽街、新開地のシンボルとして、小曽根財閥の小曽根喜一郎、「日本のマッチ王」こと瀧川辨三、関西財界の実力者森本清ら、錚々たる顔触れが出資して落成した、鉄筋三階建て、地下一階の西洋建築の劇場である。
七代目松本幸四郎の歌舞伎公演と、松井須磨子主演、トルストイ作『復活』をこけら落としに据え、以降もロシア・バレエの第一人者アンナ・パヴロワの来日公演や、世界的ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツのコンサート、笠置シヅ子の松竹楽劇団レビュー等々、「西の帝劇」に相応しく、和洋織り交ぜた豪華なラインナップを上演している。
1927年からは映画上映に経営をシフト。34年には三階に神戸初のスケート場をオープンさせるなど、1978年の閉館まで、昭和期の神戸を代表した娯楽施設である。この聚楽館で催されるすべての興行権を握っていたのが嘉納健治だった。
「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で本物の実弾込めてた」
神戸で一番の大会場を押さえていた彼の実力は、次の証言からも窺い知れる。
「ピス健はこの辺を仕切っとった大親分や。今で言うたら山口組みたいなもん。しかし兄ちゃん、なんで、今さらピス健のことなんか調べとんのよ」
怪訝そうに訊くのは82歳の好々爺である。野口修とほぼ同世代になる彼は、興味深い挿話を捲し立てるように聞かせてくれた。