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「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは? 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph by「ボクシング百年」資料写真

posted2021/02/13 11:02

「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?<Number Web> photograph by 「ボクシング百年」資料写真

日本に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた嘉納健治(右)。彼が興行を取り仕切っていた神戸の劇場・聚楽館(左)

「従兄が灘中に通っててやな、運動会に行ったらピス健が寄付した景品が山積み。ノートや鉛筆や折り紙な。余った分は子供らで山分けや。それに、ピス健は(大相撲の)玉乃海のタニマチやったから連れて来ててやな、二人三脚とかやらしてたがな。おもろいのは、徒競走のときにピストル撃つやろ。あれ、ピス健の命令で本物の実弾込めてたっちゅう話や」

 名門進学校の運動会で、徒競走の出走に実弾を放つとは、人気コミック『じゃりン子チエ』に出てきそうな展開でつい笑ってしまう。

 これら事の真偽は、今となっては確認のしようもないが、証言から浮き彫りとなる嘉納健治の人物像は、いかにも、昔ながらの土地の豪快な親分である。

拳銃でチンピラに重傷を負わせ…嘉納治五郎に引き取られる

 そんな嘉納健治だが、少年時代から粗暴な振舞いが目立ち、父親が早世すると、東京の医師、高橋家に養子に出されてしまう。厄介払いだったのかもしれない。しかし、船員から貰った拳銃でチンピラに重傷を負わせたため、通学していた獨協中学を放校、高橋家との養子縁組も解消されてしまう。

 そんな無頼な健治を引き取ったのが、二十人ほどの書生を常時下宿させていた講道館柔道創始者の嘉納治五郎だった。嘉納健治の高祖父の五代目次郎右衛門と、嘉納治五郎の曽祖父の初代治作が兄弟という間柄で、健治にとって治五郎は分家の叔父にあたる。

 誕生から一世紀近くも御影の地に住み、御影町誌の編纂にも加わった93歳(2015年当時)の甘玉猛は「健治さんは治五郎先生に頭が上がらんかった。そういう印象ですな。というのも、子供の頃に悪さして講道館に入れられた。それで柔道やらされていたらしいんです」と筆者に明かした。おそらくこれは嘉納塾のことではないか。

 1882(明治15)年2月、嘉納治五郎は全寮制の私塾「嘉納塾」を開いた。塾生は親類や知人の子弟で占められ、以後38年間、350人が巣立っている。放埓三昧の甥っ子がここに放り込まれたのも自然なことで、塾生には柔道実技も必修教科として義務付けられていたというから、健治もそれをこなしていたのかもしれない。

柔道vsボクシングの異種格闘技試合

 このときの柔道実技とは当て身(打撃技)のない乱取稽古と呼ばれるもので、裂傷を避けるために、治五郎と門弟たちで考案した練習用ルールだった。五輪競技や全日本大会、学校の体育科目に見られるスポーツを連想する現在の柔道競技は、実はこの練習用の実技をルーツとしている。

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