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「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by「ボクシング百年」資料写真
posted2021/02/13 11:02
日本に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた嘉納健治(右)。彼が興行を取り仕切っていた神戸の劇場・聚楽館(左)
打撃技のない練習形式と、囲碁や将棋にだけ採用されていた段位制の導入もあって、講道館の入門者は飛躍的に増加した。組織拡大という経営的な観点で見れば、当時の状況は決して悪くない。
しかし、嘉納治五郎自身は「打撃技も含む柔道競技」の成立を諦めていなかったという話もある。
《嘉納がイメージしていた柔道は、まさに現在の総合格闘技を柔道衣を着てやるものだった。まず離れた間合いから殴ったり蹴ったりという当て身で攻め、あるいは相手の当て身を捌いて相手を捕まえ、それから投げ、そして寝技にいくのが嘉納の理想とする柔道だった》(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著/新潮社)
そこで気になるのが、甥の嘉納健治の動向である。
1909(明治42)年5月3日、横浜羽衣座にて行われた、講道館四段の昆野睦武と、イギリス人ボクサーのアリフレッド・ガレットの他流試合を観戦し、その盛況ぶりに魅せられた健治は、自らも柔拳興行の開催を決意。神戸の邸内に国際柔拳倶楽部を開設する。
この国際柔拳倶楽部が、国際拳闘倶楽部、さらに、大日本拳闘会として後年日本最大のボクシング組織に発展する。「柔拳興行は拳闘興行の前段階にある」という従来の評価に誤りはなく、その証左とも言えよう。
ただし、そうなるのはもう少し先の話だ。
なぜなら、嘉納健治の手掛けた柔拳興行が、思いのほか大成功を収めたからである。
(【続きを読む】「打撃のない“骨抜き”柔道で警察官は仕事ができるか!」100年前に“柔道vsボクシング”を企画したヤクザの思惑 へ)
●参考文献
『ボクシング百年』郡司信夫著(時事通信社)
『力道山以前の力道山たち──日本プロレス秘話』小島貞二著(三一書房)
『ザ・格闘技──最強をめざす男たちの世界』小島貞二著(朝日ソノラマ)
『腕力養成拳闘術』岡野波山著(大学館)
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)