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ハンク・アーロンと並外れた自制心。レイシズムに苦しみながらも不正を働かなかった大打者

posted2021/01/30 06:00

 
ハンク・アーロンと並外れた自制心。レイシズムに苦しみながらも不正を働かなかった大打者<Number Web> photograph by Getty Images

715号を放ち母親に抱きしめられるアーロン。舞台となったアトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアムの跡地には、当時の落下点が印されている

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芝山幹郎

芝山幹郎Mikio Shibayama

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 2021年1月22日、ハンク・アーロンが86歳で他界した。就寝中に老衰死した、という記事がアトランタ・ジャーナル(電子版)に出ている。レジェンドがまたひとり世を去った。

 私は全盛期のアーロンを見ていない。1960年代にはアメリカへ行っていないし、当時の日本には大リーグのテレビ放送がなかった。資料映像を通して彼のバッティングを知ったのは、かなりあとになってからだ。

 74年4月、ベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜いたときの映像はあまりにも有名だが、私がもっと感心したのは、「こともなげにヒットを打つ」ときのアーロンの姿だった。なんの力みもなく、あんなに楽々と球を弾き返す右打者は、そうそういるものではない。全盛期のトニー・グウィンやイチロー、あるいはスタン・ミュージアル(3人とも左打者だ)に通じるエレガンスさえ感じさせる姿だった。

強靭な手首を持つ「総合的な」打者

 ハンク・アーロンの手首は、人並外れて強かった。「史上最強のリスト・ヒッター」と呼ばれたほどだが、それはとんでもない勘ちがいの産物だった。野球を覚えたての幼年時代、アーロンはバットの持ち方を知らなかったのだ。右打者だったにもかかわらず、彼は右手の上に左手を置く形(いわゆるクロスハンズ)でバットを握っていた。

 試してみるとわかるが、この握りでバットを振ると、両手首がねじれて負荷がかかる。強い当たりを打てば、負荷はさらに大きくなる。逆にいうと、よほど強靭な手首を持っていないかぎり、こんな打法は不可能だ。

 ニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入ったとき(1952年)も、アーロンはこの打ち方を続けていた。通常の握りに修正されたのは、同年、ボストン・ブレーヴス傘下のマイナーチームに入団してからのことだ。

 パワーヒッター(通算本塁打数=755本)の側面ばかりが強調されがちだが、60年代のアーロンは派手に騒がれる選手ではなかった。ひとつには、単年本塁打数がさほど多くなかったことがある(60年代は年間45本が最多)。打球がべらぼうに飛んだわけではないし(例外は、センターが極端に深いポロ・グラウンズのバックスクリーンに叩き込んだことだ。これは大リーグ史上ただひとり)、豪快なアーチを天高く描くことも少なかった。むしろ彼には「効率よくフェンスを越える」イメージがあった。本塁打や安打を営々と積み重ねていく印象も根強かった。逆にいうと、彼ほど「総合的な」打者はなかなかいない。

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