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「1億円でもすぐなくなった(笑)」“ガンバの天才”礒貝洋光が振り返る93年Jリーグ開幕バブル 

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栗原正夫

栗原正夫Masao Kurihara

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photograph byTomosuke Imai

posted2020/10/10 17:01

「1億円でもすぐなくなった(笑)」“ガンバの天才”礒貝洋光が振り返る93年Jリーグ開幕バブル<Number Web> photograph by Tomosuke Imai

51歳になった礒貝洋光。都内でインタビュー取材に応じた

「関西の僕らはクラブといっても、北新地のママのいるお店だから。僕はお酒は飲まないし、派手にやるのは好きじゃなかったから、基本はウーロン茶でキュっとやるだけ。でも、お金は1億でもあればすぐなくなった(笑)。ゴルフをやり出したのもその頃で、すぐに70台で回るようになっていた」

 忙しないスケジュールのなか、自身の性格を“せっかち”だという礒貝にはこんなこともあった。

「若い頃は、奇抜な髪形にしたくて美容院に行くんだけど、長い時間じっとしていられなくて。パーマをかけてロッドがまだ巻かれているのに『あとは自分でやるから』と帰っちゃったり。ときには頭にロッドを巻いたまま祇園の舞妓さんのところに遊びに行ったこともあった(笑)」

「フィジカルコーチすらいなくて……」

 Jリーグ開幕当初、たしかに日本サッカー界はバブルに包まれ、選手たちも時代を謳歌した。だが、一方でJクラブの体制や選手のパフォーマンスがそれに見合っていたかといえば、そうではなかったのだろう。

「金額がどれくらいだったかはわからないけど、お金が降って湧いてきたなか“ぬるま湯”に浸かっていた部分はあったと思う。Jリーグ開幕から数年のガンバは、フィジカルコーチすらいなくて……その重要性に気づくまで3、4年はかかったし。選手もコーチも監督も、試合前にどれくらい身体に負荷をかけたらいいかもわからずに、無理にプレーを強要されるなんてことも。その辺は、JSL時代から先を行っていたヴェルディとかマリノスとか他クラブとの差は大きかったと思う」

 振り返ればJリーグ元年、日本人選手が決めた直接FK5本のうち2本は礒貝が決めたものだった。1つが93年11月10日の鹿島アントラーズ戦で、もう1つが同20日のジェフ市原(現ジェフ千葉)戦。いずれも鮮やかな弧を描きブロックに入った壁やGKを無力にする完璧なゴールだった。

「FKはとくに練習したわけではなかったけど、他の選手が蹴るより僕のほうがいいんじゃないかということで蹴っていただけ。当時のボールは曲がらないし、落ちない。よくあんな重たいボールを蹴っていたよね(苦笑)。いまだったら簡単にブレたりするんだろうけど」

 そんなシーンを思い出すと、改めてJリーグ草創期のバブルとは何だったのかと考えさせられる。Jリーグの荒波に才能を潰されてしまった選手は少なくない。

 学生時代からその能力を高く評価されていた礒貝も、そんな1人だったかもしれない。

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