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「1億円でもすぐなくなった(笑)」“ガンバの天才”礒貝洋光が振り返る93年Jリーグ開幕バブル
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byTomosuke Imai
posted2020/10/10 17:01
51歳になった礒貝洋光。都内でインタビュー取材に応じた
空振りして笑ってる選手がいて“びっくり”
93年5月にJリーグは開幕し、同年秋には日本代表がアジア最終予選であと一歩のところでW杯出場を逃す“ドーハの悲劇”に見舞われたものの、日本サッカーは空前のブームと化した。ただ、プロ化され大きなお金が動いたとしても選手の質が急に上がるわけではない。
「ガンバに入った頃は試合で空振りしても笑ってる選手がいて、びっくり(苦笑)。帝京高や東海大にも、そんな選手はいなかったから」
そんな状況下、ケガも重なりモチベーションは低下し、礒貝のパフォーマンスは安定を欠いた。ガンバ大阪は93年が10クラブ中7位、94年が12クラブ中10位、95年が14クラブ中14位と低迷した。
いまでは信じられないが、当時のJリーグは基本的に、水曜日と土曜日に試合が組まれ、90分で決着がつかなければVゴールでの延長戦、さらにPK戦で勝負をつけるというハードさだった。
「チヤホヤされ、女性との遊びも……」
一度歯車が狂うと、修正する間もなく、次の試合がやってきた。
「恐ろしい流れでしょ。しかも、ホームでも試合前にチーム全員で前泊し、アウェイでは試合前、試合後と宿泊。だから、スケジュールはパンパン。一度シーズンが始まると、流れを変えるにはスーパーな外国人選手を呼ぶくらいしかできない」
そして巷では、Jリーガーとして持てはやされ誘惑も少なくなかった。
「サッカー選手というだけでチヤホヤされ、食事の誘いなども多く、女性との遊びも……。それで、(Jリーグ入りまで拠点にしていた)東京まで遊びに行っちゃうとガンバの朝の練習に間に合わないと困ったり(苦笑)。
ピッチでは連戦のなかケガをするのを嫌い、長距離移動のアウェイの帯同を免れようと“計画的に”イエローカードをもらったことも……。0-2とリードされたら逆転は難しい。無駄に体力を使いたくなかったので、60分を過ぎると次の試合に備えて自分から交代を申し出たこともあった。釜本さんに甘えていた部分があったのかもしれないけど、そんなのは僕だけだったかも」
「お金は1億でもあればすぐなくなった(笑)」
たとえばヴェルディ川崎のカズ(三浦知良)やラモス瑠偉、武田修宏らは六本木のクラブなどに姿を見せることが、たびたび週刊誌やテレビのワイドショーで報じられていた。