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スポーツ選手は政治とどう関わるべき?
チリの、あるサッカー選手の英雄的人生。 

text by

ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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photograph byL'Equipe

posted2020/08/30 18:00

スポーツ選手は政治とどう関わるべき?チリの、あるサッカー選手の英雄的人生。<Number Web> photograph by L'Equipe

1982年6月17日。スペインW杯でのオーストリア戦でPKを外した時のカセリー。

政治的に常に戦い続けていたカセリー。

 この動画の中でのカセリーは、喜びを滲ませながらこう締めくくったのだった。

「彼女は僕の母親だ。僕は今度の選挙での投票箱に《ノン》と書いた紙をそっと滑り込ませるだろう」

 このビデオクリップは、長期にわたって軍事独裁政権を敷いたアウグスト・ピノチェトが、政権のさらなる延長を求めた国民投票を1988年10月5日に実施した際のものだ。まさに、選挙運動が最も華やかなりしころに作られた宣伝用ビデオ映像なのである。

 そしてこの映像が実際に、投票の行方を左右した。

 運命の振り子は大きく振られ、圧政下にもかかわらず政権継続反対に投じたものは56%に及んだ。こうして1990年に軍事政権は終わりを告げ、チリは民主主義体制に回帰したのだった。

 この歴史的な転換点において、カセリーが果たした役割は大きかった。揺るぎない信念と政治への深いかかわりは、彼の中で決して弱まることはなかった。

 チリサッカー史上最高の選手のひとりと評価の高いカセリーは、ユニフォームを汗まみれにするのを厭わないタイプだった。政治的な信条を隠さず、それで身の危険が生じても意に介さなかった。

 フランコ将軍独裁時代のレアル・マドリーへの移籍がほぼ決まりながら、契約締結直前に政治的な理由で白紙撤回されたのも、ある意味当然の結果であるといえた。

カセリーの発言は国の政治を左右した。

 カセリーは1950年7月5日、ハンガリー移民で鉄道労働者であったルネ・カセリーの息子としてサンチャゴに生を受けた。好奇心に富み情熱的で、知性に溢れ勉強熱心。子供のころからカセリーはそんな性格だった。

 政治的には左翼で、1970年9月4日にサルバドール・アジェンデ政権樹立を実現した人民連合の支持者であった。

 政治活動に積極的に関わり、1973年3月4日の国政選挙では、下院では共産党のグラディス・マリンを、上院ではボロディア・テイテルボイム支持を表明した。彼の声は国民に大きな影響を与えた。それだけカセリーの人気は高かった。

【次ページ】 所属するコロコロを南米屈指の名クラブへ導いた。

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