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スポーツ選手は政治とどう関わるべき?
チリの、あるサッカー選手の英雄的人生。 

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ロベルト・ノタリアニ

ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni

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photograph byL'Equipe

posted2020/08/30 18:00

スポーツ選手は政治とどう関わるべき?チリの、あるサッカー選手の英雄的人生。<Number Web> photograph by L'Equipe

1982年6月17日。スペインW杯でのオーストリア戦でPKを外した時のカセリー。

カセリーの誹謗中傷を続けたピノチェト政権。

 母の不法監禁――カセリーは自身の政治活動の対価を支払わされたのだ。ただ、彼自身はこのときスペインのクラブ――レバンテとエスパニョール。リーガで1973年から78年に117試合に出場し70ゴール――に移籍し、難を逃れていた。

 圧政に屈服するつもりは毛頭なく、独裁政権への嫌悪感を隠そうともしなかった。1974年ワールドカップ直前の表敬訪問の際にも、彼はピノチェトへの握手を拒否したのだった。

 もちろんそうした態度を軍部が気に入るはずはなかった。だが、カセリーは、身柄を拘束するには知名度が高すぎた。政権側にできるのは、せいぜいのところ誹謗中傷するくらいであった。

チリの民衆はずっとカセリーを慕い続けた。

 西ドイツとのグループリーグ第1戦(1974年6月14日)で、ベルティ・フォクツへのファールから大会第1号の退場者となったカセリーは、続く《社会主義国》東ドイツとの対決を欠場せざるをえず、また《国歌吹奏時のぞんざいな態度》を軍部寄りのメディアは強く批判した。

 そのワールドカップを契機にカセリー不要論は高まり、それはチリ代表の力が低下し再び彼に頼らざるを得なくなった1979年まで続いた。この年、カセリーが唯一出場したコパアメリカでチリは決勝に進み、カセリー自身は大会最優秀選手に選ばれた(註:当時のコパアメリカは1カ所集中開催ではなく、グループリーグから決勝まですべてホームアンドアウエーでおこなわれた。パラグアイとの決勝はアスンシオンで0-3、サンチャゴで1-0、ブエノスアイレスでの第3戦は延長の末0-0でパラグアイが2度めの優勝)。

 また'82年には自身2度目となるワールドカップ(スペイン大会)にも参加したが、このときはオーストリア戦でのPK失敗が親ピノチェト派のメディアから激しい批判を浴びた。

 だが、民衆のカセリー支持は不変だった。

 1985年10月、コロコロが主催した彼の引退記念試合(当時のカセリーはエクアドルのバルセロナ・グアヤキルに所属)には、8万人の観衆がナショナルスタジアムに詰めかけた。

 彼らが歌う『ヤ・バ・ア・カエレ(「打倒しろ」の意のピノチェトへのプロテストソング)』はスタジアムに響き渡り、それはカセリーの心を喜びで満たした。

 そしてその歌は、1988年の国民投票による政権打倒まで続いたのだった。

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