フランス・フットボール通信BACK NUMBER
スポーツ選手は政治とどう関わるべき?
チリの、あるサッカー選手の英雄的人生。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2020/08/30 18:00
1982年6月17日。スペインW杯でのオーストリア戦でPKを外した時のカセリー。
所属するコロコロを南米屈指の名クラブへ導いた。
身長1m71cm。チリチリ頭に口ひげを蓄え、爆発的なスピードと華麗なドリブル、知性に溢れるプレーを身上としたカセリーは、狭いスペースでのプレー――とりわけ相手ゴール前での切れ味のあるプレーで能力を発揮したことから、現役時代は《1メートル四方の王様》の異名をとっていた。
1967年のプロデビューから頭角を現し、1973年のリベルタドーレス杯で《エル・チノ》(中国人の意でもうひとつの彼の異名)は13試合で9ゴール(大会得点王)をあげてコロコロを決勝に導いたのだった。
このときの決勝の相手はアルゼンチンのインデペンディエンテ。
《チームの50%》とまで称されていた天才プレイヤーのオマール・パストリーサこそ前年限りで退団していたものの、《神童》の誉れ高かった18歳のダニエル・ベルトーニと19歳のリカルド・ボチーニがその代わりを務める当時の南米最強チームだった。実際この時は、同大会でインティペンディエンテが4連覇を果たした時代の、2年目のシーズンだったというのだから、まさに全盛期と言って良いだろう。
ホームアンドアウエーの対戦は2引き分け(1-1、0-0、当時の南米ではアウェーゴールルールは適用せず)、モンテビデオでおこなわれた第3戦はカセリーのゴールとサルバドール・アジェンデのサポートにもかかわらず、2得点を決めたインデペンディエンテに凱歌があがった。
母親も不法監禁され、拷問された。
コロコロの熱烈なサポーターであったアジェンデ大統領は、カセリーのことをヒーローとして崇拝していた。だが、そのころから、チリをめぐる社会的・政治的状況は緊張を高めていた――。
CIAのサポートを受けた将軍たちはアジェンデ政権の転覆を計画。その結果、1973年9月11日、アウグスト・ピノチェトによるクーデターが勃発し、大統領官邸を爆撃されたアジェンデは同じ日に自殺を遂げた。
それは暗い時代の始まりだった。
2298人の死刑が執行され、1209人が行方不明となった。さらに3万人以上が不法監禁され(その多くがサンチャゴのナショナルスタジアムに収容された)拷問を受けた(註:政治犯をナショナルスタジアムに監禁したことを理由に、ソビエト連邦はチリとのワールドカップ大陸間プレーオフを拒否。ソビエトの棄権によりチリは戦わずしてワールドカップ本大会出場権を獲得した)。
その中には政治警察「DINA」に拘束されたカセリーの母親も含まれていたのである。