プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
獣神サンダー・ライガー爆誕秘話!
藤原喜明、船木誠勝らと運命の出会い。
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2020/04/24 19:00
アントニオ猪木に可愛がられたデビュー当時の山田恵一。タッグチームとして戦うこともあった。
心はUWFよりもマスクマン!
1985年12月、一度は新日本プロレスを出ていった前田日明や高田伸彦(現・高田延彦)らのUWF勢が戻って来た。山田にしてみれば、藤原が戻って来たことが一番うれしかった。試合前のリング上での練習は藤原教室と呼ばれるものになり、汗びっしょりの締め合いのスパーリングが繰り返されることとなった。
当時の山田は、高田とのシングル戦に抜擢されたり、タッグマッチでは猪木のパートナーに指名されて、高田や木戸修と戦っていた。
この頃からして、山田は野心家だった。
ADVERTISEMENT
「オレがオレが」でなくてはこの世界は生き残れない。みんなが、なかよしこよしで手をつないで走るような世界ではないのだ。
当時、仲の良かった船木はUWFに興味を示していたが、山田はマスクマンになりたいと強く思っていた。正直なところ、マスクマンになれないなら新日本プロレスを出てもいいとさえ思っていたほどだったという。
1989年1月、山田はリングネーム“フジ・ヤマダ”としてイギリスに武者修行へ向かった。そして、リバプールで船木と合流。ここで2人は同じアパートで暮らすことになるのである。ジムにも一緒に通って体を鍛え続けていた。
東京ドームで獣神ライガー爆誕!
男ふたりの宿では自炊もしたが、昼は中華街でチャーハンを食べたり、夜はインド・カレーで腹を満たしたりと、若者らしい自由な生活だった。
当時、取材で訪れた筆者がリバプールで見た山田は、「おまえっ、何者だ!」というくらい劇的に立派な体になっていた。
当時の山田は、全日本プロレスでの戦いまで視野に入れて自らの「進路」を模索していた。
ここに舞い込んだのが、1989年4月24日の新日本プロレス初の東京ドーム大会でマスクマンとしてデビューしてはどうかという話だった。
山田にとっては願ってもない条件だった。
こうして山田は「獣神ライガー」になって、「デビュー戦」を小林邦昭と戦うことになったのである。
その時の山田も、まさかこんなに長くライガーとして戦い続けるとは夢にも思っていなかっただろうが――。