熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
クルピのセレッソ愛と才能育成論。
「香川、乾、柿谷の成功は……」
posted2020/01/02 11:50
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Getty Images
ブラジルで名だたるビッグクラブを率いて多くのタイトルを獲得し、日本でもセレッソ大阪とガンバ大阪の監督を務め、数々の逸材を世に送り出した名将にして名伯楽のレヴィー・クルピが、34年間に及んだ監督業からの引退を表明した。
ブラジル南部クリチーバの自宅(今は日本料理店の経営をしているとのこと)を訪ねたインタビュー、前回はリバプールに加入した南野拓実の秘話について聞いたが、今回は長いキャリアを振り返ってもらうとともに、彼がこよなく愛する国・日本のフットボール界への真摯な提言を聞いた。
悪くない選手だったけど、指導者の方が。
――これまでいくつのクラブを率いたか、自分で覚えていますか?
レヴィー・クルピ(以下、クルピ)「わからない。20を超えているとは思うが…」
――延べ31クラブ。このうち5つのクラブで複数回、監督を務めておリ、クラブの数では22。選手としては、14年間、CBとしてプレーしました。選手時代で、印象に残る出来事は?
クルピ「たくさんあるよ。5歳だった1958年、ブラジル代表(セレソン)がワールドカップ(W杯)で初優勝し、老いも若きも大喜びするのを見て、『フットボールはこれほど大勢の人をかくも幸せにするのだ』と感銘を受けた。これが私の原点だ。
14歳で地元のクリチーバの下部組織の入団テストを受けて合格したこと、U-20ブラジル代表の主将として国際大会で優勝したこと、プロになったこと、メキシコでプレーしたことなど、すべてが素晴らしい思い出だ」
――1986年末、ブラジル南部の中堅クラブで現役を退き、すぐに同じクラブのトップチームの監督になります。いつ頃から指導者になろうと考えていたのですか?
クルピ「チームが勝つためにどうすればいいか考えるのが好きだったし、主将を任されることが多く、リーダーシップが身についていた。自分は悪くない選手だと思っていたが、指導者の方が適性があると考えた。33歳のとき、クラブの会長から『選手を引退して監督になってくれ』と言われ、以後、指導者の道を歩むことにした」