バレーボールPRESSBACK NUMBER
栗原恵がいま語る17年間の波乱万丈。
「レールを敷かれた人生が嫌いで」
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byAtsushi Hashimoto
posted2019/06/29 11:55
悔しい時もつらい時も、母からの言葉「凛と」を胸に戦っていた。
母に言われた「どっちを選んでも後悔する」。
家族とはもちろん、友人と離れるのもつらかった。島の中学校は1学年1クラスか2クラス。保育園の頃からずっと一緒に育ってきた気心の知れた友人と離れ、1学年7クラスもあるような学校に行くのは心細かった。
そんな栗原に、母・厚子さんはこんな言葉をかけた。
「行って後悔するか、行かないで後悔するか。たぶんどっちを選んでも後悔するよ。行ったら行ったで、こんなところに来なきゃよかったとか、きついとか寂しいといっぱい思う。でも行かなかったら行かなかったで、あの時行っていたら、自分はどんなふうになってたんだろう、もっと違った人生だったかもしれないって、絶対思う。どちらの後悔がいいかはお母さんにもわからないから、自分で決めなさい」
そこで栗原は、「じゃあ行く」と泣きながら決断した。
大津中学の監督は、のちに「メグが来た時は、ヒョロヒョロと細くて、こんな子が来てもすぐに泣いて帰るんだろうなと思った」と明かしたそうだが、栗原は、見た目からは想像できない“頑固さ”を秘めている。
「両親からも『すぐに帰ってくる』みたいに言われていたので、『行くって決めたら絶対に帰らない!』と決めていました」
転校後は、「後悔する暇もないぐらいに」練習した。週に一度、両親が訪ねてきた時には必ずと言っていいほど、栗原は疲れ果てて寝ていたという。
Vリーグ入り後も1年で異例の移籍。
大津中学から、山口県の強豪、三田尻女子高校に進むと、インターハイ、国体、春の高校バレーで優勝。高校3年で代表デビューし、卒業後はVリーグのNECレッドロケッツに入団した。
しかし栗原は1年でNECを辞め、パイオニアレッドウィングスに移籍する。今でこそ選手の移籍は盛んになったが、当時はまだ珍しく、しかも1年での移籍は異例。わがままだというバッシングも受けた。
「生意気な選手だったなって自分でも思うぐらいなので、周りにそうやって言われたのも当然かなと思う」と振り返るが、決して思いつきで移籍を決めたわけではない。