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栗原恵がいま語る17年間の波乱万丈。
「レールを敷かれた人生が嫌いで」 

text by

米虫紀子

米虫紀子Noriko Yonemushi

PROFILE

photograph byAtsushi Hashimoto

posted2019/06/29 11:55

栗原恵がいま語る17年間の波乱万丈。「レールを敷かれた人生が嫌いで」<Number Web> photograph by Atsushi Hashimoto

悔しい時もつらい時も、母からの言葉「凛と」を胸に戦っていた。

「レールを敷かれた人生がほんとに嫌いで」

 栗原は高校時代からパイオニアに行きたいと希望していた。

「外国人監督のもとでやってみたかったんです。中学、高校と、どちらかというと日本的な厳しい学校でバレーをしていたからかもしれません」

 当時、パイオニアは名将アリー・セリンジャーが率いていた。

 しかし強豪校の多くは特定の実業団チームとのパイプがあり、それ以外のチームに行くことは難しかった。そうした事情の中、一度はNEC入団を決めたが、パイオニアへの憧れを封じ込めておくことができず、移籍を決断した。

「私、レールを敷かれた人生がほんとに嫌いみたいで」と笑う。

 実は中学から高校に進む時にも、栗原は用意されたレールを進まず、三田尻女子高に進学していた。

 当時のVリーグは、元のチームからの移籍同意書がなければ、1シーズン、リーグに出場できないという決まりがあったが、それでも栗原はパイオニアに移った。

「メグさん、すぐ無理って言う」と怒られた。

 憧れたセリンジャー監督の指導は刺激的だった。

「すごく楽しくて、すべてが新鮮でした。それまでウエイトトレーニングはあまりしたことがなかったんですけど、すごく力を入れていた。プレーの指示にしても、『あと0コンマ何秒速く』みたいなことを言われて、『そんなのわかんないし!』って思うけど、それも新鮮で。『こういうバレーをやっていたら、自分も変わるのかな?』と感じました。

 あと、『無理』って言うとすごく怒られるんです。日本語で『メグさん、すぐ無理って言う』って。やってみて、その結果できないならともかく、最初から自分でそういう言葉を使わないで、とすごく言われました。『できないじゃない。“やる!”でしょ』って」

 1年間はリーグ戦に出られず、試合に同行もしていなかったため、毎週木曜日に遠征に出発するチームメイトを見送り、週末は1人でトレーニングをする日々だった。しかしそこで、栗原は大きな武器を身につける。ジャンプサーブである。

 サーブ練習は1人でもできるため、週末の誰もいない体育館で、ひたすらジャンプサーブを打ち続けた。その1年が、Vリーグで三度のサーブ賞を獲得し、2008年のワールドグランプリでもベストサーバーに輝いた、鋭くミスの少ない、精度の高いサーブを生み出したのだ。

「あの期間がなかったら、たぶんあんなにサーブ賞は獲れなかったと思います。(試合に出られない1年は)マイナスのようで、結果的にプラスになったのでよかったなと思いますね」

 試合に出られるようになった2005/06シーズンはチームのリーグ優勝に貢献し、最高殊勲選手賞を獲得した。

【次ページ】 母にもらった「凛と」という言葉。

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