ビッグマッチ・インサイドBACK NUMBER
戦力外通告からCL優勝の逆転人生。
諦めの悪い主将ヘンダーソンの涙。
text by
寺沢薫Kaoru Terasawa
photograph byAFLO
posted2019/06/03 11:10
父親のブライアンさんと写真に収まるジョーダン・ヘンダーソン。子どもの頃からの夢をかなえた瞬間だった。
ベテランから若手まで意見を求める。
たとえば2013-14シーズンには、チームが優勝争いを戦うなかで、退場処分を受けて出場停止になったことがあった。
すると、彼は自身が出られない次のアウェーゲームにも自ら志願して同行し、「自分がメディア対応を全てやるから、仲間たちは試合に集中してほしい」と申し出た。
インタビューを受ければ、自分のことは二の次でチームメートの貢献ばかりを称える。チームがスランプに陥った際には、率先して選手たちに声をかけ、みんなを集めてミーティングを開くのもお馴染みだ。
アダム・ララーナはそのミーティングが、「互いを傷つけるためでなく、自分たちがプロとして何をすべきか思い出すための場」だと話す。ヘンダーソンはベテランから若手まで分け隔てなく意見を求め、チームをまとめていくのだという。
クロップが提案したコンバート。
その後、新たにチームの監督となったクロップも、迷わずヘンダーソンを主将に任命した。
「ジェラードの後任を務めるなんて、フットボールの500年の歴史で最も困難な仕事だろう。だが、彼はそれを見事にやってのけている」
そう語り、ヘンダーソンのリーダーシップを称える。
クロップの下でも、キャリアに紆余曲折はあった。足底筋膜炎(そくていきんまくえん)という珍しいケガに苦しめられ、左足のかかとに慢性的な痛みを抱えていたヘンダーソンは、症状がひどい時には「足を地面につけるだけでも痛かった」という。
クロップは、チーム事情も鑑みた上で、スプリントの負担が多いインサイドハーフ(8番)から、より負担の少ないアンカー(6番)へのコンバートを提案した。彼はそれを受け入れ、新しいポジションにチャレンジした。
やはり最初は戸惑ったが、ここで彼はビルドアップだけでなく、タックルやインターセプト、カバーリングといった守備のセンスを大きく向上させた。
「チームのためならなんでもやる」
このコンバート成功もまた、彼のチームへの忠誠心、そして努力の賜物だった。