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田臥勇太が語るNBAとスラムダンク。
平成バスケブームの「かっこよさ」。
text by
村岡俊也Toshiya Muraoka
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/04/25 10:00
流川と仙道という天才同士の1対1や、言葉によらない対話ができる関係性が好きだと田臥は言う。
ドリームチームの録画が見たくて。
NHK BSでもNBA中継が始まり、1992年にはバルセロナオリンピックが開催される。ジョーダンはもちろん、マジック・ジョンソン、チャールズ・バークレーなど、トップ・オブ・トップのNBA選手が集結したアメリカ代表のドリームチームが決定的な後押しとなって、バスケ人気が世界的なムーブメントになるなか、日本でのブームも一気に加速していく。
全国高校体育連盟の五十年史には、高校バスケットボール部の部員数が記されているが、1992年に初めて男子の部員数が10万人を超えている。
家ではBS放送を見ることのできなかった田臥は親の知人や友人たちに、録画を頼み込んでいたという。
「すいませんけどお願いしますって、オリンピックも全試合録画してもらいましたね。それをまた繰り返し観て。友人たちと試合の話をした記憶はそれほどないんですが、それは自分がNBAにのめり込みすぎていたからかもしれない(笑)」
エア・ジョーダンの狂騒的な人気。
田臥ほどには、まだNBAに熱狂していなかった同級生たちも、一方でファッションとしてのバスケには強く惹かれていた。
当時は現在ほど認知度が高くなかったNIKEが発売したジョーダンモデルのバスケットボールシューズは、「エア・ジョーダン」としてシリーズ化され、狂騒的な空気を巻き起こしていく。CM監督には、映画『マルコムX』を撮ったスパイク・リーが起用され、アメリカではジョーダン・スニーカーのために殺人事件が起きてしまうほどの社会現象となった。
日本でスニーカーの強盗事件が取り沙汰されるのは'90年代半ばからだが、それ以前にバスケはファッションと結びつきストリートカルチャーとして時代を席巻していた。