松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
「全てがうまくいかなかった」頃から、
パラ卓球・吉田信一を支え続けた人。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2018/12/16 08:00
パラリンピック競技は一般的に馴染みのないジャンルが多いが、体当たり取材でその本質を伝えたい。
「とにかく『うまくいかない』人」
吉田「車椅子生活のきっかけとなった事故が関係していて、手術のときに輸血された血液の中に肝炎ウィルスが入っていたみたいで……。だから、抗がん剤治療を1年間続けました」
松岡「プータローになって、さらにはC型肝炎になって……むちゃくちゃ辛いじゃないですか。卓球だけに集中するなんて、とてもそんな環境じゃない」
吉田「それでもできる範囲では練習をしてました。抗がん剤を月曜日に投与して、水曜くらいから熱が出始めるんですけど、それを紛らわせるためにちょっと練習しようと。ひどい人は鬱になったり毛が抜けたりするんですけど、私はそれはなくて。症状としては軽い方だったから、練習もできました」
松岡「コーチは正直、可哀想だと思ったんですか」
小川「うーん、可哀想というか、とにかく『うまくいかない』人なのかなって。気持ちはすごくあるのに、その環境がなかなか整わない。
私は中学からバレーを始めて15年くらい続けたんですけど、とても良い環境でやらせていただいたんです。バックアップも色々あって、競技人生をとても満足して終えられた。
なので、吉田さんにも同じ感覚で、卓球をやっていて良かったなと最後に思ってもらいたくて。そのお手伝いができれば良いなと思いました」
松岡「自分は恵まれていたんだって、吉田さんを見ている中で気づくことができたんですね……。でも、こんなに長い付き合いになると思ってましたか」
小川「思ってないです(笑)」
松岡「ですよね……」
自分の身に起きたさまざまな苦難と向き合いながらも、卓球に打ち込み続けた吉田さんと、その苦闘をずっと見ていた小川さん。2人がチームになってから、何かが動き出した。
松岡「そして……。このチーム結成をきっかけに、吉田さんは『うまくいく』人になっていくんですね?」
吉田「そうですね。うまくいかなかったことが1つひとつクリアされて、自分の気持ちもどんどん前向きになっていきました。病気も治ったし、新しい職場はとてもよい環境でした。だって、仕事はきっちり17時には上がれますから。
ロンドンパラリンピックには出場できなかったけど、リオなら目指せる、と思って、努力を続けました」