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そのスライダーで一流打者を育てた。
悔いなき投手人生、杉内俊哉の引退。
posted2018/09/14 13:30
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
Kyodo News
杉内俊哉がボールを置いた。
通算142勝をマークし、沢村賞、最多勝など数々のタイトルを獲得した巨人の杉内俊哉投手が9月12日、現役を引退することを発表した。
都内のホテルで行われた引退発表の記者会見。
「ここ3年間、全く野球はしていない。正直、潮時かなと思いました。本来の目的はマウンドで投げて、あの試合の緊張感の中で勝った、負けたということだった。若い選手と過ごす時間が増えて、心から後輩を応援するようになった。勝負師として違うかなという風に感じました」
杉内は引退を決断した心の内をこう語り、後輩の内海哲也投手から花束を渡されると、溢れる涙を拭った。
栄光に包まれた、その投手人生。
あくなき執念。2015年7月21日の阪神戦で古傷の右股関節痛が再発。同年10月に球界では前例のない右股関節の形成手術を受けた。
車椅子生活から始まったリハビリを耐え抜き、'16年7月19日の三軍戦でマウンド復帰、すると'17年には二軍で先発できるところまで戻って来た。あと1試合二軍戦で登板し100球を投げられることを確認したら、一軍マウンドで奇跡の復活を遂げるはずだった。
ところがそこで左肩痛に襲われた。
再び始まった治療とリハビリの生活。今季は右内転筋痛にも悩まされ、ついにブルペンに入ることもできなかった。
振り返れば投手として、これでもかというほどの実績を残してきた。
鹿児島実業高校時代の1998年には夏の甲子園大会で八戸工大一を相手にノーヒットノーランを達成。三菱重工長崎を経てプロの世界でも一流への階段を駆け上がってきた。
ソフトバンク時代の'05年には最多勝、最優秀防御率の2冠で沢村賞に輝き、3度の最多奪三振など数々のタイトルを手にしてきた。'06年、'09年、'13年の3度のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表にも選ばれ連覇に貢献。特に'09年の第2回大会では原辰徳監督に勝負どころの切り札として中継ぎ起用されて5試合6回3分の1を無失点と2連覇の陰の立役者となった。
巨人移籍後の'12年5月30日の楽天戦では、史上75人目のノーヒッターも達成している。
投手として、相手打者を封じることで杉内自身がやり遂げてきた実績、仕事だった。
ただ杉内という投手が球界に残してきたものの中にはもう1つ、忘れてはならない仕事がある。
それは杉内という投手と対戦し、彼を打ち込もうと技術を磨くことで、どれだけの打者が育ってきたかということだ。