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ルメールが日本移籍を決めた理由。
宝塚記念ではサトノ復活を期す。
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph byKeiji Ishikawa
posted2018/06/22 07:00
サトノダイヤモンドも5歳になった。ライバルマカヒキは骨折で戦線離脱し、「最強世代」の力を見せられるか。
デムーロとは異なる日本移籍の事情。
「JRAの騎手試験を受ける準備を整えていました」
遡ること1年半。'13年6月、JRAは大阪市内で開かれた定例記者会見で翌'14年度の騎手免許試験要項に、外国人騎手の通年免許について明文化する意向を表明していた。
そして、実際にそれが実施されると、すぐにミルコ・デムーロが受験した。
同騎手の母国イタリアでは競馬が破綻状態。「賞金は大幅に削減された上に、支払いが遅延する事態にまで至っていた」とミルコは嘆いていた。同国の騎手や調教師が生活の場を他国へ求めて出国するのは自然の流れだった。
一方、クリストフが育ったフランスはヨーロッパでは抜けて高い賞金を誇っていた。ミルコのようにやむにやまれぬ理由で自国を出るのとは違う理由をクリストフは持っていた。
「アガ・カーン殿下との契約が丁度切れたタイミングでした」
フランスでは騎手が大手馬主との間に優先騎乗契約を結ぶことは特別なことではない。ある意味でそれは、大きなステータスでもあった。アガ・カーン殿下はザルカヴァやシンダーなど、過去にも多くの名馬を生産、所有しており、彼と契約できたのもクリストフにとっては“誇り”となっていた。
妻に相談すると、想像以上に大賛成。
ところが、その大馬主との契約を打ち切られた。
「正直、フランスでの競馬に対するモチベーションを維持するのが難しくなりました」
そこで、「大好きな日本への移籍」を考え、妻のバーバラに相談した。すると……。
「妻は大賛成してくれました。短期免許中に何度も来日経験のある彼女は、僕が考えていた以上に日本のことを気に入っていたんです」
だから、怪我で休んでいる間も、フランスへ帰ることは考えず、リハビリの合間を縫って日本の競馬や日本語の勉強に励んだ。そして、JRAの試験を受けると、見事にこれを一発でパスしてみせたのだ。
「とてもハッピーでした。大好きな日本で改めて“やる気”を持って競馬に乗ることができる。本当に嬉しかったです」