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ルメールが日本移籍を決めた理由。
宝塚記念ではサトノ復活を期す。
posted2018/06/22 07:00
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph by
Keiji Ishikawa
2014年11月24日の京都競馬場。
当時、短期免許で来日していたクリストフ・ルメールは、月曜開催となったこの日も3勝を挙げていた。しかし、迎えた最終12レースで、思わぬアクシデントが彼を襲った。
第12レースの3歳以上500万下条件芝2200メートル。彼は5番人気のファーガソンの手綱をとった。
同馬は5月10日のプリンシパルS以来、半年以上の休み明けでの実戦。春にはダービーを目指したほどの素質馬だったが、この時は久々で馬体重も前走比プラス20キロだった。
「久々で必要以上に負荷をかけたくなかったのか、休む前に着けていたブリンカーをこの日は装着していませんでした」とクリストフ。その影響があったのかどうかは分からないが、レースは思わぬ方向へ進むことになる。
ゲートが開くとクリストフにいざなわれたファーガソンは2番手を追走。勝負どころでも手応えが鈍ることなく、いつでも前を捉まえられるという感じで直線を向いた。
骨折からのリハビリ期間、彼は日本に留まって。
「そのまま楽に先頭に立てました」
休み明けでも500万下条件なら能力の違いで勝ち切れるのか!? と思ったそのすぐ後に、地獄へ続く入口の扉が開いた。
「先頭に立った次の瞬間、急に内へササりました。あとはもうアウトオブコントロールでした」
急激にササッた鞍下はそのままラチに激突。ラチを壊してもまだ止まろうとしない馬から、放り出されるような形となったクリストフは、ラチの上でバウンドした後、地面に叩きつけられた。
「ベリーバッドアクシデントでした。記憶が飛んだりすることはなかったので、すぐに大怪我だと分かるほど痛みました」
足を骨折し、緊急入院。その後も長いリハビリが続き、戦列を離脱することになった。
アクシデントによりしばらくの間、競馬に乗れなくなったクリストフ。しかし、その間も母国フランスへ帰ることはなかった。日本に留まり、何をしていたのか……。