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NBAのスター“ペニー”が指導者に。
Bリーグ三遠のドジャーが語る素顔。
text by
青木崇Takashi Aoki
photograph byB.LEAGUE
posted2018/04/27 17:30
2016年に来日し三遠ネオフェニックスでプレーするロバート・ドジャー。ヨーロッパやアジア各国でプレーしてきたベテランジャーニーマンだ。
「とんでもないくらいエキサイティング」
「とんでもないくらいエキサイティングな気分になったよ。コーチ・カル(ジョン・カリパリ:ドジャーが在籍してきた時の指揮官で現在はケンタッキー大のヘッドコーチ)がメンフィスにいた時は、(OBが)ジムでプレーしていたどの選手とも会えたし、彼らのプレーを見ることや一緒にワークアウトすることもできた。
でも、コーチカルがいなくなってからそういった環境もなくなり、我々はペニー・ハーダウェイがやっているジムに行くようになっていた。彼はメンフィスのダウンタウンでジムを持っていて、(メンフィス大)OBの多くがそこでプレーしていたんだ。
そんな彼がヘッドコーチになるというのは、とても大きな意味がある。メンフィス出身の人が就任するというのは、シティにとってもすごくエキサイティングなことであり、(メンフィス大の)バスケットボールを理解し、人々がどのくらい愛しているかをわかっている。
メンフィス大の元選手としての経験だけど、私が1年生の時からペニーは我々のそばにいてくれた。我々のことを理解し、リスペクトしてくれたから、我々も彼のことをすごくリスペクトしている。彼がすばらしい選手をリクルートしてメンフィスに連れてくるだろうし、将来をすごく楽しみにしている」
シャックとのコンビで人気を博したペニー。
1993年にシカゴ・ブルズを3度目の頂点に導いた後、マイケル・ジョーダンは現役から引退し、メジャーリーガーになろうとしていた時期があった。NBAは当時、次世代のスーパースターを生み出そうという動きがあり、その中の1人にハーダウェイの名前もあった。
ペニーのニックネームでも有名なハーダウェイは、テネシー州メンフィスで生まれ育ち、201cmのポイントガードとしてメンフィス大で脚光を浴びた。1993年のドラフトNo.3ピックでゴールデンステイト・ウォリアーズに指名された当日、No.1ピックのクリス・ウェバーと交換でオーランド・マジックに移籍。破壊力抜群のセンター、シャキール・オニールとのワンツーパンチで、1995年にマジックがNBAファイナルに進出する原動力となる。
4度のオールスター選出、1996年にアメリカ代表の一員としてアトランタ五輪で金メダルを獲得するなど、ハーダウェイは着実にスーパースターへの階段を登っていく。NIKEはシグネチャー・シューズを発売し、彼が出演したCMに登場したリトル・ペニーは大人気のキャラクターとなった。