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スピードスケートだけでメダル6個!
日本を変えたデビットコーチの4年間。
posted2018/02/26 11:45
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
Naoya Sanuki/JMPA
平昌五輪で金3、銀2、銅1、計6個のメダル獲得と入賞9という成績を残した日本スピードスケート勢。メダルゼロどころか入賞もわずか4だった'14年ソチ五輪からの大躍進の背景とは――。
'14年6月。日本電産サンキョー・スケート部の今村俊明監督は、3人の選手を連れてスケート王国のオランダに向かった。'10年バンクーバー五輪では同社(当時)の長島圭一郎と加藤条治が男子500mでそれぞれ銀、銅メダルを獲得したが、ソチ五輪では2人とも入賞止まり。女子中長距離の高木菜那は入賞からも遠かった。
今村監督は高木、入社1年目のウイリアムソン師円ら中長距離の3選手とともに、オランダのプロチーム「ニューバランス・スピードスケートチーム」の門を叩いた。
簡単に受け入れてくれた訳ではない。日本電産サンキョーが同チームのスポンサーフィーを払っての参加だった。今村監督はスケート仲間の知人を頼って情報を収集し、「良いコーチがいる」と紹介されてこのチームを選んでいた。
ソチでは1ジャンルでメダル23個のオランダ。
当時、今村監督は「会社には無理を言ってお願いした。ソチで惨敗して、思い切った挑戦をしなければいけないと思った」と語っていた。
ソチ五輪のスピードスケート競技だけで23個ものメダルを獲得したオランダにはどのようなノウハウがあるのか。それを知りたかった。
ときを同じくして女子短距離の小平奈緒もオランダに行っているが、両者は連携していたわけではない。偶然、同時期に同じことを考えていたのだった。
日本電産サンキョーが加入した「ニューバランス・チーム」には当時34歳だったヨハン・デビットコーチがいた。
選手時代の実績に特別なものはなかったが、指導者としての評判は高かった。