フランス・フットボール通信BACK NUMBER
イタリアの超スポーツエリート家族。
ブッフォン家に伝わる王者の伝統。
text by
バレンティン・パウルッツィValentin Pauluzzi
photograph byL'EQUIPE
posted2018/02/08 07:00
ブッフォン家では、スポーツをすることそのものが人生であった。写真は、ジャンルイジ・ブッフォンの母マリアの円盤投げの光景。
プロサッカー選手として輝く経歴を持つロレンツォ。
「私の祖父と、ジジ(ジャンルイジの愛称)の曽祖父が従弟だった。ブッフォンの一族は全員がフリウリ地方のペルテガダの出身なんだ」とロレンツォは打ち明ける。
フランスのサンティエンヌ近郊に何年か住み、ロレンツォの父親は地元チームのゴールを守っていた。
ロレンツォ自身のプロデビューはイタリアに帰国してからで、セリエDのポルトグルアロで1年プレーした後、1949年にACミランに引き抜かれたのだった。
当時のミランはグレノリ・インナートリオ(グンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルム=ともにスウェーデン代表。'48年ロンドン五輪優勝、'58年スウェーデン・ワールドカップ準優勝)や“世紀の名インナー”と言われたファン・スキァフィーノ(ウルグアイ)らを擁し、黄金時代を迎えていた。
不動のゴールキーパーとしてロレンツォも、10年間で4度のスクデット獲得と2度のラテンカップ優勝に貢献。その後はジェノアとインテル(スクデット1度獲得)、フィオレンティーナでもプレーを続けた。またイタリア代表(15試合出場)でも、キャプテンとして1962年チリ・ワールドカップに出場している。
ロレンツォは見抜いていた、ジャンルイジ少年の才能を。
現役引退後、ロレンツォはミランのスカウトに転身したが、フリウリでともに夏のバカンスを過ごしたジャンルイジ少年のことはずっと気に懸けていたという。
「彼は中盤でプレーしていたが、ゴールを守ったときに私にはすぐにわかった。本当の才能はゴールキーパーであると。
ミランにもそう報告したが、あまり興味はないようだった。だが、その3年後にはパルマでプロデビューを果たし、デビュー戦となったミラン戦でマンオブザマッチに選ばれた。試合の後でカペッロ(当時ミラン監督)はこう言ったんだ。『スカウトのひとりに推薦されたことがあったが……』。私の報告を彼は覚えていたんだ」