酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
運と偶然に溢れた10万本の本塁打。
数え間違い、踏み忘れ、メモリアル。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2017/10/08 08:00
うっかりのベース踏み忘れが、まさか10万号本塁打への伏線になる……とはマレーロも思ってもみなかっただろう。
“2万号”を放った助っ人は記念品をもらったが……。
紹介したメモリアル本塁打のうち、2万本目は当初、近鉄のマイク・クレスニック(登録名クレス)だと発表されたという逸話がある。
1966年7月6日の東京球場の東京戦、午後7時52分、東京オリオンズ成田文男の初球をバックスクリーンに運ぶ2ラン本塁打だった。
クレスはインタビューで「(第1号が出た1936年は)ボクが5歳のときだ。それから2万本目だって? 歴史的な一発になったわけだな!」と喜び、記念品も贈呈された。ちなみにこの試合の観客数は「1000人」という球団発表だったから、おそらくは数百人ほどだっただろう。大記録は閑古鳥が鳴く中、達成されたのだった。
しかしその後、数え直してみると1966年以前の通算本塁打数が1本少なかったことがわかった。黙っていればわからないのに、とも思うが、当時の日本プロ野球機構記録部は真面目に数え上げていたのだ。「本当の2万本はクレスの後、同じ試合の3回裏に出た井石礼司の第4号満塁本塁打だった」と修正が発表された。
それからおよそ20年後の1985年、井石は5万本の仲根正広と一緒に野球殿堂博物館で表彰された。当時、井石は43歳。野球をやめて12年が経っていた。
クレスは2011年に物故したが、自分が打った記念の2万号が、実は1万9999号だったことを知っていただろうか?
マレーロは来日初本塁打を本塁踏み忘れで幻にした。
ことほど左様に、メモリアルホームランは、運や偶然に左右される。
10万本目のオリックス、マレーロは今シーズンがNPB1年目である。6月9日に来日初本塁打を放ったのだが、本塁を踏み忘れ「幻のホームラン」にしている。
もしこのとき、マレーロがちゃんとベースを踏んでいたら、通算本塁打は1本増え、10万本目はその直前にホームランを打ったチームメイトのT-岡田だったことになる。賞金の100万円をもらい損ねた岡田は「折半しよう」とマレーロに迫ったと報じられたが、マレーロは断ったそうだ。