酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
板東英二って実は凄い球児だった。
16回完投の2日後、延長25回完投。
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2017/07/23 09:00
近年はゆで卵のイメージが強すぎるが、板東英二という人は日本野球界に一石を投じる役割を果たしていたのである。
伸び悩んだ板東がつかんだリリーフエースの地位。
中日入団後、板東は前年引退した大エース杉下茂の後継者として期待がかかるが、1961年の12勝以降は伸び悩み、1963年からは救援に転向する。当時の救援投手は「先発投手より力が落ちる投手の持ち場」という認識があったが、板東は救援投手になってから頭角を現した。
1965年、巨人・宮田征典が今の基準に当てはめれば22セーブ、41セーブポイント(セーブ+救援勝利数)を記録した。宮田は日本初の本格的なクローザーとして「8時半の男」と言われたが、このとき板東は11セーブ、21セーブポイントを記録し、リーグ2位にあたる成績だった。
ただ宮田と板東の違いは翌年以降の成績に出た。宮田の成績が下落する一方で、板東は1966年は11セーブ、24セーブポイント。1967年は7セーブ、21セーブポイント。いずれも当時の成績で言えばリーグ1位、NPB全体でも1位にあたるものだ。
昭和中期のクローザーは、大エースが先発登板の間に掛け持ちするものだった。金田正一、稲尾和久、杉浦忠などは、救援でも大活躍した。
しかし板東はNPBでは最初の、救援だけに徹した「リリーフエース」になったのだ。
星野、鈴木、岩瀬とつながるクローザーの系譜の元祖。
中日ドラゴンズのリリーフエースの系譜は、板東が引退した年に明治大学から入学した星野仙一(1974年初代セーブ王)、鈴木孝政(3年連続最多セーブ)へとつながっていく。
NPB最多セーブの岩瀬仁紀につながるドラゴンズのクローザーの系譜は、板東英二に始まると言ってもよいかもしれない。
余談だが、板東と同期の王貞治ソフトバンクホークス会長は最近、福岡で「王さんって、昔、巨人で野球していたって本当ですか?」と聞かれたことがあるのだという。
王会長でさえそうなのだから、板東英二が昔、野球選手で、甲子園でもプロ野球でも画期的な活躍をした投手だったことを知る人など、ほとんどいないだろう。
いろいろあってしばらくメディアから消えていた板東だが、最近またちらほら見るようになった。77歳、そろそろ「ボクってすごかったんやでー」と言ってもよいのではないだろうか。